第4章 パズル(2)DNA鑑定室
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/10/01

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第四章 
パズル(2)DNA鑑定室

 

 白衣に身を包んだ四年生たちが、ぞろぞろと研究棟の長い廊下を進んでいく。
 気象予報では台風が近づいていると伝えられ、先ほどから時折、建物を震わすように雷が鳴っている。

 

 

 先頭を歩く川原典子准教授が早口で、廊下の左右に連なる部屋の説明を続けていたが、窓の外を走った稲光に小さくきゃっ、と声をあげて、足を止める。
「雷、やめてよ」
「怖いんですか? 雷」
 学生の一人が訊ねる。
「嫌いよ。だってうちの研究棟ではね、雷で停電になるのが一番怖いのよ。何しろここには億単位の機械がある。停電で故障すれば、一度で六百万円くらいの修理代が平気でかかってくるんだから」
 と、ため息混じりにそう話したときに、菜々子はそんな理由だったかと改めて安堵した。川原がいたずらに雷を怖がるような女性には見えなかったからだ。

 

 医学部附属法医学センターは、医学部の敷地の中でも、一番奥まった別棟の二フロアを占めている。先ほど、後期に法医学の履修願いが叶った学生たちが、ガイダンスを受けに集ったところだ。
「法医学だけでさ、うちの大学ってこんなに大きな研究施設、持ってたんだな」
 タビケンのくせ毛こと霧島も、結局履修希望を出していた。先ほどからやけに菜々子の隣で話し続けているのは、きっと少し緊張していたからだろう。
 何しろ廊下の壁には、それぞれに大きくナンバリングされた大型の冷蔵庫が整然と並んでおり、その中には、さらに詳細に、日付や解剖番号、組織の名前などが書かれたチューブが入っている。法医解剖された死体の血液や尿、そのほか様々な部位が保存されていると先ほど説明を受けたばかりだ。雷より死体の方が、日頃学生には縁遠い存在だ。
 しかし、准教授川原は、何でも淡々と説明する。今日ここまでで一番感情に起伏が見られたのは、六百万円の出費につながる雷である。面白い人だと菜々子は思う。

 

 

「あ、もう終わったか。お疲れ様です」
 両手を白衣のポケットに入れたままの川原が次に足を止めたのは、雑然としたゼミ室の前で、扉が少し開いていて、楕円のテーブルを囲んで十名程が集っていた。
 中のスタッフにそう言って声をかけた後、学生の方を振り向く。
「ここの人たちはね、今、変死体の解剖を終えて帰ってきたところです。これから、執刀医が、警察官にマクロ的な所見について説明するところね」
 そう言われて、学生たちは改めて室内の人たちの様子を覗き込む。テーブルを囲む面々が、各自マグカップやペットボトルの飲み物を口にしている。死体の解剖を終えた生きた人間たちがそうして喉の渇きを癒しているのが、菜々子には生々しく映った。
「最近は、警察官も女性が多いわね」
 川原にそう言われて初めて気づく。カーキ色のユニフォームを着ている人たちの背中には、警察署の名が印字されている。
「そういえばさ、さっきからこの研究棟にも、ずいぶん女の人が多いよな。綺麗な人もいたんだよね」
「あんた、今日はさっきからうるさいね」
 菜々子がくせ毛から離れて、列の前の方に進もうとすると、
「そんな冷たいこと言うなよ」
 と、霧島も後ろからついてくる。
「質問していいですか?」
 一番前にいた四年の女子が、メモを片手に声を上げた。

 

 

「どうぞ」
 と、川原は彼女を見つめる。
「ここでまず、執刀医が説明するマクロ的なこととは、どんなことでしょうか?」
 間髪入れずに、川原が答える。
「骨折、外傷、脳挫傷、くも膜下出血、腹腔内出血など、きりがないんだけど。それに、頸部気管や肺の様子、例えば焼死体でも、気管支内が焼けているか否かで、亡くなってから焼けたのか、焼けて亡くなったのかがわかるわよね。そうした所見から、まずここで、死因を特定するための最初の消去法が行われます」
「先生、じゃあ、今日解剖があったご遺体は、焼死体だったんですか?」
 さっきまでびくついていたはずの霧島が、突然質問した。
「そうね、火事になったアパートの一室で発見された身元不明死体です。確か今朝の新聞にも記事が出ていたんじゃないかしら。これが捜査本部事件だったりすると、ここからさらに相当な時間が費やされるんだけどね」
 と、川原は、また淡々と答えた。
 華奢な体に、細かいペーズリー柄のボウタイのあるブラウスを着て、その上から白衣を羽織っている。時折、ポケットに両手を入れて話す。
 無駄な贅肉のない頬から顎の線は、よく見ると端正な人形のようだ。この准教授がなぜ、法医学のような死体とばかり向き合うことになったのかを、菜々子は訊いてみたくなる。
 そもそも自分自身が今ここにいるのにも理由があり、学部生としては十分不純な動機に違いないのだった。

 

 さらに進んでいくと、次第に実験装置のような機械が並ぶ部屋が連なり始める。
 それぞれの部屋で機械が動いている。
「ここからは、ミクロ的な鑑定のための部屋が続きます。うちの設備は、なかなか先端を行っている、と自負しています。血液、尿、薬物反応、DNA研究、皆さんが行う各自のDNA鑑定もこの部屋から始まります。では、一つ一つの機器について説明していくので、お渡ししたプリントを広げて」
 菜々子は、川原の説明を聞き逃すまいと、そのプリントを目で追った。

 

 

 この夏、判ったこと。
 菜々子の血液型はB型。
 揃ってO型の両親からは、生まれるはずのない血液型を持っていること。

 

 これについては、もうあれこれ考えるまいと決めたのだ。
 すでにさんざん考えて二つの仮説を導き出したからだ。
 一つは、自分は父が他所で作った子である、というもの。または母に、父とは別の相手がいたというのがもう一つの説。いずれも、わずかでも想像しただけで吐きそうになる。
 前者であるなら、母が幼い菜々子を愛せなかったとしても当然だった。
 けれど、思い返しても母が父に対して、そうした厄介な感情を抱えていたように感じたことはない。父は平生のんびりとして、大した趣味もなく、暇があると一人で囲碁盤に向き合っていたし、夫婦仲は決して悪くはなかった気がする。
 なのでもう一つの、母に密かに男がいた、という仮説の方が現実的だ。母は今もどこか女でいたがっているように感じるし、父の旅館業を継がされて、それなりに不満だって抱えていたはずだ。他の男へのときめきを自制できなくても、不思議ではない。それで自分のことが疎ましかったのか。後ろめたさもあったに違いない。
 いずれにしたって、今までずっと両親だと思ってきた父と母の、どちらかが親ではないのだ。
 それを自分はずっと隠されて生きてきたのだ。そう思うと、菜々子は家族という寄る辺を本当に失った気がした。これまでは、自分から進んで家族から自立してきたように思っていたが、初めから家族ではなかったのかもしれない。
 私は、家の秘密を押しつけられた子どもだったのだ、と。

 

 あの日、大講堂で川原典子の話を聞かなければ、菜々子はこのことを考えることから逃げていたかもしれない。家族の真実など知らないままでも、自分は何かに困窮するわけではない。比較的家族とは距離を置いた二十二歳の学生として、なんとか医学部を卒業し、独り立ちをすればいい。
 だが、川原が言っていたことは、菜々子に響いた。病気を治すこと以外にも、医学が存在する。それには、客観的なエビデンスが必要で、主観が入ってはいけない領域だと、准教授は自分たち学生に呼びかけた。その時に、菜々子は皮肉にも、医学部にいる理由と、あの日はじめて出会ったような気がしたのだった。

 

 

 面白いじゃないか。自分の手で真実を見つけられるのだ。そう思うと、急に菜々子を覆っていた霧が晴れていくように感じた。
 自分の中に流れ込んだDNAをまず追い詰めてみたい。家族の真実について考えるのは、それからだ。

 

〈法医学 第三研究室
 DNA鑑定室〉 

 

 幾つも並ぶ部屋の前で、菜々子はそのた一つのルームプレートを見上げた。
 いつしか激しい雨が、窓を打ち付けはじめていた。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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