第4章 パズル(3)イタヤカエデ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/10/09

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第四章 
パズル(3)イタヤカエデ

 

 キャンパスにも、秋の風が急に吹き始めた。
 夏が終わると午後の講堂には、窓から西日が差し込むようになる。その始まりの時間が少しずつ早まっていく。
 学部での講義が終わると、各自ゼミ室へと移動するのだが、遠い研究棟へ移動することが多い四年生たちは時間に追われ、一斉に階段を駆け下りていく。難解な衛生学を詰め込まれてヒートアップした頭が、つかの間冷やされていく。

 

 

「菜々子、よっ! 後期は忙しいね」
 後ろからパンと背中を叩かれて振り返ると、髪の毛をずいぶん短くカットしたジヒョンが、教科書を腕からこぼしそうなほど抱えていた。変わらない涼しげな目元で笑っている。
「なかなか会えないけど、その髪型はいい感じだよ」
 と伝えて、少しだけ、菜々子も歩を緩める。
同じ速度で歩いたり、走ったりしたいと思える相手が友達。余裕のないこの頃は、余計にそんな風に、感じる。
「うん、はじめて日本でカットした。自分でもよく気に入った」
 と、教科書を抱かえたまま二本の指だけをハサミのように動かし、続けた。
「後期のペースに慣れたら、また謙太とも黒い麺、食べに来たらいい」
「チャジャンミョンだ! 確かにまた食べたいな、よっしゃ、がんばろう」
 菜々子はあのねっとりした麺を思い出すが、実は緊張で胸板を押されているような思いに包まれていた。

 

 階段を降りきった正面には、イタヤカエデの古木が立っている。その前まで来ると、分岐路になる。
 この樹木の葉っぱはカエルの手のようだからカエデと呼ぶのだと、本当か嘘かは知らないが、小さい頃サーちゃんが教えてくれたのを不意に思い出していた。このカエルさんの手は、いつも季節を教えてくれるんだよ。はじめに緑の花が咲いて、それを包むようにカエルの手が柔らかく開いていく。夏には立派な手になって、秋になると黄色く枯れていくんだよ、と教えてくれたサーちゃん。
「いつの間にか、黄色くなったね」
 菜々子がその樹の前で思わずそう呟くと、
「先週から、突然先が若干くしゃっと? そう言う感じに丸まった」
 と、ジヒョンも表現した。
 この樹木を真ん中に置いて、菜々子は左奥の法医学研究棟へ向かう。ジヒョンは斜め右の新しい教室へと向かうみたいだ。
 二人で手を振って別れ、また互いに小走りに駆け始めた。

 

 

 学生の実験レベルのDNA解析で特定できるのは、各自が持つ十五座位。自分の座位から、父の座位を引き算するのか、母の座位を引き算するのかで、何れにしてもほぼ両者との血の繋がりはわかる。
 髪の毛、ヘアブラシ、口腔内の粘膜、歯ブラシ、へその緒、または最近だとスマフォ画面を拭った綿棒からでもDNAの抽出は不可能ではないと、准教授川原典子はガイダンスで伝えてくれた。
 これらを溶解液で溶かしてから、さらに幾つもの段階を経て、各自の遺伝子多型、DNA上の地図を描き出すことができる。巷で言われているようなPCR検査よりはずっと精密な行程を経るが、ここでなら、自分でもできなくはないと菜々子は確信を持った。
 地図、タビケン以外でこの言葉を用いるのも、気に入った。私はここで、自分の地図を見つける。どんな道がそこにあるのかを、見つける。
 実験が始まる前に。菜々子には川原に相談しなくてはいけないことがあり、今日は特別に研究室を訪ねる時間をもらっていた。

 

 ルームプレートのついた、准教授室の白い扉をノックする。
 窓際にも床からもうず高く資料の積まれた部屋は、決してよく片付いているとは言えないが、ここにも傾きかけた太陽からの光が金色に差し込んでいる。眠気覚ましなのか、強壮剤の瓶や缶コーヒーが、窓辺にずらりと並べられてあった。
 机のパソコンに向かっていた川原が、椅子ごと回してこちらに顔を向ける。
 グレイのシンプルなタートルニットのワンピースの上から白衣を着ており、細い足を組んだ。
「ええと、宮本さんね。どうしましたか?」
 いつも時間に追われているように早口なので、菜々子も単刀直入に切り出した。
「もうじき始まるDNA鑑定を、私には三人分やらせてもらえませんか?」
 首を斜めに傾けて、川原は薄く笑った。そして、また机の方を向くと、言った。
「なるほど、構わないですよ」
 あまりにあっけなくOKが出たのに、
「え、いいんですか?」
 と、むしろ驚いていると、
「だって、やりたいわけでしょ? 単位だけ取りたい人たちだっているのに、感心じゃないの」
 調子が崩されてしまう。なんとか説得するつもりで来たからだ。
「検査キットの予算のこととか、先生はおっしゃっていたし、それに、理由はお訊きにならないんですか?」
 川原は少々面倒くさそうに、小さくため息をついた。
「三人分というなら親子鑑定なのかなとは見当はつくけど、個人的な理由があるなら黙ってやればいいんじゃない? 夜もこの研究室は開いているし」
「すごく意外です」
 思わず正直にそう呟いて、胸に手をのせてると、川原は、そう? とばかりにこちらに視線を送った。

 

 

「なぜ?」
「はい、なぜかと言うと、他人のDNAを勝手に調べるのは法律に引っかかるとか、そういう話をされるかと覚悟してきました。そう言われたら、勝手にやろうかとも……」
「でしょ? だから、止めたりしないわよ。真実の探求が、この教室の一つテーマなの。ここにおいては、真実は一つなのよ。その真実は、必ずや人を助けます」
 その返事に、菜々子の全身に汗が浮かんだ。むしろ自分は、特例は認めないと言って欲しかったような気もしていた。だめだと言われたなら、それを理由に諦める覚悟の方が大きかったのかもしれないとも、優柔不断なことを思っていた。
 菜々子は深緑色のタートルニットにベージュのワイドパンツ、ハイカットのスニーカーを履いている。膝の上で手を握った。
「はい、プレゼント」
 川原は机の上の引き出しを開くと、手を動かしカサカサとした乾いた音を立てた。准教授の白い手がつかみあげたのは、細長い紙袋に収まった、長さ十五センチほどのホスピタル綿棒だ。ごそっと掴んで渡してくれる。
「取れそうなもの、できるだけ取って来なさい。お疲れ様」
 そう言って面会の終わりを告げられ、菜々子はその綿棒を自分のショルダーバッグの中に収めたのだった。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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