第4章 パズル(4)ホスピタル綿棒
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/10/16

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第四章 
パズル(4)ホスピタル綿棒 

 

 ゼミ室で日暮れまでを過ごし、駅までの帰り道に湯河原の実家に電話をかけた。本当はメールでやり取りしたいが、母からは常々返信を打つのが面倒だから、電話にしろと言われている。今時、電話が得意な学生などいるだろうか。でも向こうには向こうの都合があるわけだ。もしかしたら必要以上に複雑な都合も。
 この時間、温泉旅館に宿泊客があるときは両親はフロントの奥の座敷に詰めている。客のないときは車で三分の場所にある自宅に戻り、旅館へかかる電話をそちらに転送している。

 

 

 白々しく旅館の方に電話をしてみた。
 母がよそ行きの声で電話に出たが、菜々子だとわかると、ああ、とばかりに声が低くなった。菜々子の方も、転送された音で、その向こうに和服姿ではなく、髪の毛を下ろしたスエット姿の母が思い浮かんだ。
「今度の週末、ちょっと帰ってもいいかな」
 案外素直にそう訊けたのは、自分には帰るべき理由があるからだ。今はまだ帰ると言っていい理由がある。でももしかしたら、すぐ先には、自分にはもうそこは、帰る場所ですらなくなるのかもしれない。
「実家なんだから、いちいち断らなくていいでしょ」
 いちいち突っかからないでよとこっちこそ言いたくなるが、菜々子は続けた。
「じゃあ、土曜の夜に帰ります。日曜の朝にはまたこっちへ戻るけど」
「はいはい」と、さも忙しそうに母は返事をし、通話を切った。
 毎回こうやって連絡を取るたびに、心に雲がかかるように憂鬱になる。だから約束をしてもドタキャンしたことも度々あったのだが、今回は必ず行かねばと、バッグの中でカサカサ音を立てている綿棒に触れる。

 

 幹線道路にたどり着く。駅構内の人混みへと入り、改札口に向けるスマホ画面を準備していると、ラインの通知音が鳴った。母からかと慌てて後ずさりする。
〈今日も忙しい?〉
 どこかで見ていたようなタイミングでそう送って来たのは、謙太だった。
 雑踏に押し流されていきそうになり、少し人混みから離れた。画面をじっと見て、返事を迷った。
 自分の血液型がわかってから、謙太には一応、すぐに伝えたが、それきりこの件には触れていない。なんでも自分を頼ってほしいと言ってくる謙太が少し重い。今頼りになるのは自分だけだった。法医学を履修し始めたことも、自分でDNAの親子鑑定をしようとしていることも、話しても謙太の表情を曇らせるばかりのような気がしている。
 謙太にわかってほしいという気持ちが、やはり持てないままだ。なんでも話して欲しいと言われるのは、今の菜々子には負担なのだ。けれど、もしも今はまだ何も訊かないでくれるなら、謙太に会いたい。謙太の放つ温もりにも触れたい。
〈今、駅に着いたところ。そっちはどう?〉
〈どうでしょう。振り向いてみて〉
 革のジャンパーを着て、ガードレールに、ヘルメットを二つ、膝に抱えて座る謙太の姿が見えた。

 

 

 スマホを片手にこちらを見上げている。なぜいつも謙太はそんな風に捨てられた子犬みたいな顔をしてこちらを見るんだろう。
〈そういうことか〉
〈ね、かっこいい人が座ってるでしょ〉
 そこまでラインで戯れ合ってみたが、アホらしくなり、菜々子の方から歩み寄った。
「急にお腹空いた」
 と、近寄りながら、バッグの中のホスピタル綿棒の束を奥へとぎゅうっと押し込む。
「何、食べようか?」
 謙太が目尻を下げて、長い指で菜々子の顔にかかった髪の毛を払う。
 少し会わない時間が続くと、ラインでのやり取りもぎこちなくなり始めるのに、こうして会うとすぐに、互いの間で凍りかけていた水はぬるんでいく。謙太となら、それができる。
「実はジヒョンがさ、また二人でチャジャンミョン食べに来たらいいって、さっき言ってくれたんだ。ジヒョンともなかなか会えてなくて」
「ちょっと急だけどね」
 謙太はそう言いながら、ヘルメットの一つを菜々子に手渡し、珍しいことを言う。
「でもさ、頼んでみようか、ダメ元で」
「おけ! ラインしてみる」
 謙太はヘルメットを自分でかぶり、すぐ先に停めてあったオートバイに跨った。

 

 

 唐辛子には香りがあるのだろうか。
 ジヒョンの家に着くと、テーブルの上で鉄の鍋が香ばしい湯気を上げていた。
 赤いエプロンをつけたジヒョンに、謙太が手に提げてきた土産のハーゲンダッツを手渡し、
「うっまそう。アサリも入ってる本格的なやつじゃん」
 と、先に覗きこむ。食べ物をそうして見る男の子が、菜々子は好きだ。自分のこともそうして見て欲しくなるから。
「寒くなったから、鍋にしたよ。ジヒョンのお料理レパートリー、チャジャンミョンだけじゃないよ。今日はチゲ」
 三人で鍋を囲み、はじめはめいめい、食欲そのものの支配下に身を委ねて、かきこむように食べた。
 赤い辛味スープには、謙太の言うようにアサリの出汁がしみ出していて、食べたことのない深い味わいだった。豆腐も肉も長葱も、最高に味が絡み合っている。
「わたしこれ久しぶりに作った。一人じゃ鍋できないから」
 ジヒョンが言う。
「そうだよね、今度日本の鍋もごちそうするよ。菜々子とうちにおいで」
 謙太が、みんなにお代わりをよそいながらそう誘う。
「行く、行く」
 と、ジヒョンも続く。
 少し落ち着くと、ジヒョンは菜々子に他愛なく訊いてきた。
「法医学はどう? 大変?」
 不意に謙太が器を手にしたまま、訊いてきた。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使も務める。
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