第5章 謙太(4)The person
谷村志穂『過怠』

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第5章
謙太(4)The person

 

 ピペットマンで極微量の試薬類を計量し、抽出したDNAと混ぜていく。そもそも0.2mLのチューブとは、小指の先ほどもない。これに一滴とも言えない量のDNAを落とすのだ。この工程を、PCR調整と呼び、川原に教わった八つのステップのうちの第五段階に入ったのを、ノートで確認する。

 

 

 菜々子は青い手袋をつけ、全て緊張の面持ちでこれを行っていたのだが、
「おうおう、まだ続けるの? がんばるね」
 と、急に後ろから川原に声をかけられ、手元が狂いそうになる。
「ああ、びっくりしますよ」
 素直にそう言うと、川原は笑っている。小さく深呼吸して、なんとか最後のチューブまで蓋をして、ステップ5を終える。

 

 6・PCR装置にセット。
 この作業の待ち時間は、ノートには〈1時間から遅くても2時間半〉と書かれている。用いるPCR装置、サーマルサイクラーには、システム9700との表示があり、あちらこちらに先輩たちが使い込んできた跡がある。
 研究室では時折、灰色の弁当箱のようなこの装置に、
〈作業中、禁タッチ〉
 などという張り紙とともに放置されているのを見かけるが、菜々子はとてもそんな心境にはなれそうになかった。
 これを始めるとなると、今日は一旦帰宅することもできなくなるが、やってしまうしかない。逸る気持ちを抑えることができない。
 このサーマルサイクラーでは、サンプルの容量に合わせて、様々な、サンプル・ブロック、等間隔で無数の円形の穴が開いた板状のものが用いられる。この穴に、それぞれサンプル名をつけたチューブを収めていく。家族分のチューブを並べたブロックをセットしスイッチを入れると、95度、72度、58度という三つの温度設定が、2分刻みで30サイクル繰り返すというメソッドが実行される。それぞれのサイクルの中で、目的するところの各自のDNA型が増やされていく。
 サイクルが今どこにあるのかを、装置上の青い小窓がディスプレイ表示する。
 昔はこの温度設定を変えていくサイクルを、すべて人の手でやっていたのだというから、驚かされる。

 

〈M-h〉は、母の髪の毛。
〈F-m〉は、父の髭。
〈B-t〉は、弟の歯ブラシ。
〈P-m〉は The person 自分自身の口腔内細胞をそう名付けた。

 

 それぞれのプロファイルを、まるで他人事のように記号化したが、そのいずれもが温もりや匂い、声や笑い方まで知っている相手なのだ。そして、もしかしたら一番厄介なのが自分自身なのかもしれない。まさにThe person、お前は一体何者なのだ? と問いかけてみたくなる。
 刻々と温度を変えていくサーマルサイクラーの、微かな作動音が不気味にも思える。まだゆうに一時間以上は続く。

 

 

 今日の講義は一限から始まる。
 せめて洗面だけは済ませておこうとその場を立った。廊下を伝って階段を下りた先に女子トイレはある。年季の入った校舎のトイレの真水は、いかにも冷えきっていて勢いよく溢れた。透明な水の勢いに不思議な安らぎがあった。幾度も顔を洗う。首筋まで水がつたい、それすらも心地よく思えた。
 顔を上げると、充血した目の二十二歳の顔が、ヒビの入った鏡に映し出されている。いつもトートバッグに入っているポーチは、どちらかというとデートのための用意だった。小さなショーツも一枚入っており、菜々子はトイレでそれだけは穿き替えた。Tシャツくらい入れておけばよかったのだが、着替えの準備はない。
 小さなコップ付きの簡易歯ブラシで、がしがし、泡立てて歯を磨いた。
 歯ブラシが二本も行方不明になったはずの実家からは、その後何の連絡もない。誰かが古くなって捨てたのかとくらいにしか思っていないのだろう。緊張感のない家族の日常は馴染んだ毛布のようで不意に愛おしさがこみ上げた。
 きっと、そんな日常の中の裏切り者は母なのだとまた感じた。父は知っているのか、知らないのか。もしわかった結果を打ち明けたなら、家族はどうなるのだろう。それとも、三人はもうよく知っていて、菜々子だけが蚊帳の外だったのか。だから、こんな鑑定には何も意味がなかったと鼻で笑われるのだろうか。

 

 タオルを首にかけて、菜々子は再び研究室へと戻った。
 稼働を続けるサーマルサイクラーの前に座りスマフォの画面を開くと、
〈タケル♡〉のトークが増えていた。
〈菜々子、研究室にずっといる? ちゃんと食べている? 私が海苔巻き、持って行こうか? うちの韓国の海苔巻きは、本当美味しい!〉
 早朝のジヒョンからのメールを読む。
 謙太からは、何も書き込みがない。
〈おはよう。すっぴんで着替えもなしだけど、後で講義に行くよ。午前の講義が終わったら今日は一旦直帰して着替える。海苔巻きは、ごちそうだよ。こんな時じゃなくて、またジヒョンの家でゆっくり食べたいな〉
〈お任せしろ。あれ、この言葉はなんか変?〉
 すぐにジヒョンのメッセージが返ってきて、つかの間笑わせてくれた。
 自分の書き込みに、すぐに既読が二つになった。謙太も読んでいるのなら何か呼びかけたいのだが、言葉が結べない。謙太もいつものようにすぐに言葉を寄せてこなかった。
 オートバイのポスターの貼ってある彼のあの部屋の中を、二周くらいしたようなタイミングで、こう送ってきてくれた。
〈菜々子、がんばれ〉

 

 

 その頃、謙太もシャワーを浴びたばかりだった。
 腰に一枚バスタオルを巻き、頭を薄手のタオルで拭きながらリビングに出てきた。ちょうど兄が淹れたてのコーヒーをキッチンに立ったまま飲んでいた。片腕にはコートといつもより厚めのアタッシュ・ケース、時間も普段より早い。
「出張かな? それ、片付けないで行っていいよ」
 そう言うと、
「お前の分、コーヒー淹れてないや。昨日遅かったみたいだし、まだ寝るんだろ? 菜々ちゃんとデート?」
「違うよ」
 ひと言で答えると、兄が詮索してくる。
「あれ? もしかして、最近うまく行っていなかったり?」
「そんなんじゃないから」
 面倒になってそう言うと、兄がなお顔を覗き込んできて、謙太の上腕を触り、
「お前、いい体してんねー」
 などと言ってきた。
 兄を手で追い払い、謙太は自分の部屋に入る。確かに、少し寝るつもりだった。
 その時点では、まだ菜々子からのラインは届いていなかった。
 机の上に置いたのは、英字新聞にくるまれた小さなプレゼントだ。謙太は昨日夕方になってから、久しぶりにオートバイで都心まで走り出た。品川の桜並木や、外苑の銀杏並木など、この時期いつも楽しみにしているツーリングの道がある。桜は花より紅葉が好きだ。オートバイが走る車輪の後ろを、枯葉が舞う。菜々子と行った去年のツーリングが忘れられず、今年も一緒に走るつもりだった。
 たまには一人もいいよな、と自分に言い聞かせた。背中にあった菜々子の温もりも柔らかさもないけれど、その分いつもよりアクセルをふかし、思い切り体を倒してカーブを曲がった。
 オートバイが唸りをあげて気ままにコースを選びながら走っているうちに、昨日は蚤の市が開かれている公園に出会ったのだ。アンティークの椅子やテーブルが出してあり、食器、大きな鏡などが目に止まった。
 もともとそうした場所が好きな謙太は、迷うこと無く、オートバイを停めた。

 

 

 あるブースに、寒そうに身を屈めながらアンティークのアクセサリーを売っている、外国人らしい痩せた女の子を見つけた。彼女が、おそらく売り物らしき指輪を、たくさん指につけているのが目に留まった。
 菜々子に似て細くて、少し筋張った手だった。
 菜々子の手を思い出した。指を開いて見せてもらうと、シルバーで、黒い石がついている指輪が光って見えた。彼女によく似合いそうだと思った。
 ライダース・ジャケットのポケットに入れてあった財布の金でなんとか間に合うのがわかり、それを包んでもらった。

 菜々子へのクリスマスプレゼントにするつもりだ。それが今机の上にある。 
 今年は、会えるか会えないかはわからないから、買おうと謙太は思った。渡せるかはわからないから、自分の手に持っていたい。
 菜々子は、今忙しいだけだ、とはどうしても思えないのだ。忙しいと言えば、彼女は会った時からつむじ風のように忙しかった。それに気まぐれだった。気まぐれなつむじ風が自分の腕の中にある時だけ、温かくてしなやかで香るようだった。
 けれど、菜々子がどんどん小さく溶けていく気がする。心の扉を閉ざしてしまった。
 離れていきそうに思えて仕方がなく、そこに手繰り寄せたいような気持ちで指輪を買った。
 昨日、遅かったのは一度菜々子の部屋の前まで走って行ったからだ。だが、部屋の灯りは灯らなかった。
 ストーカーのようなことをするつもりはないけれど、そうせずにいられないような気がした。それで今朝になり気持ちの切り替えをしようとようやく思えたタイミングで、自分へのラインではなくジヒョンへの返事が書き込まれた。
〈タケル♡〉
 そんなポップなグループ名でよかったよな、と謙太は思う。なんだっていいのだ。菜々子がそこにいる。
 ひと言、がんばれ、と書いた。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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