第5章 謙太(5)十五座位
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/11/27

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第5章
謙太(5)十五座位

 

 菜々子はその日も夜になると、また法医学教室へと戻った。
 人の気配が消えていき、各ゼミ室の照明が落とされていった頃合いを見計らって、学生用ロッカーにしまっておいたサンプル・ブロックをそっと取り出した。PCR装置でDNA型を増幅させた家族全員分の、0.2mLのチューブが並んでいる。
 いよいよ、最終工程に入る。

 

 

 クリーンルームでの作業はもうおしまいで、幾つもの機器が並んだ鑑定室で机に向かう。

 

 7.シーケンサーにセットして、PCR増幅産物を検出する。

 

 ここで行われるのは電気泳動。
 陽性コントロール、陰性コントロール、アレリックラダーの各マーカーを一緒に流して一回30分のランで8サンプルずつ泳動させる。
 この段階に入ると、ディスプレイの画面には、いよいよ記号化されたプロファイル名が表示されるようになる。
 鑑定をはじめてからはよく眠れていないはずなのに頭が覚醒しており、菜々子の目には、〈M〉とした母から採取した様々な生々しいサンプルが、それに〈F〉とした父、〈B〉とした弟や、〈P〉である自分自身のサンプルを溶解液に入れたところからの様子が、巻き戻っていくようにも感じた。

 

「大丈夫?」
 帰り支度でダウンジャケットを羽織った川原が、部屋の扉の前に立つ。
「はい」と、頷くと、シーケンサーのところまでやって来た。ディスプレイ画面で順調に作動しているのを確認する。
「まだいらしたんですか?」
未明に駆けつけた時と同じ格好だから、彼女は帰宅していないようだ。
「ちょっと調べ物してた。順調そうなら、今夜中に解析まで行けるね」
「うまく進んでいれば、そう思います」
 近づいた川原からは、強いコーヒーのような呼気の匂いがした。そう言えば川原の部屋には、カフェイン入りドリンクの小瓶が並んでいたのを思い出す。
 菜々子は顔を上げずに、呟いていた。
「何が出てくるのかな……」
「そうね。この段階になると、やっぱり臨場感あるよね」
 川原の口調はいつも一定で、科学的というよりは、純粋にあらゆる結果を面白がろうとしているようにも響く。
 きびすを返して帰ろうとする川原に、菜々子は思わず呼びかけた。

 

「先生、私みたいに、自分の親子鑑定をしようとした人って今までいましたか?」
「いたよ」
 即答だった。あまりに速かったので、川原の顔を見返す。
「もしかして、それって先生ご自身のことですか?」
 菜々子を覗き込む川原の目が微かに揺れて、一旦閉じた。
「そうね。私もその一人だった。ただ、親を鑑定したわけではなくて、自分の子どもを鑑定する必要が生じたの。元夫との間にトラブルがあってね」
 ああ、と思わぬ声が漏れた。
「結構、衝撃的な話ですね」
「そうかな。ここにいると、いろいろ慣れちゃうのかな。他にも鑑定の希望を申し出た学生もいたし、世の中の親子関係って、案外複雑よ」
 菜々子の中で、ずっと上擦って張り詰めていたような気持ちの箍が少し緩んだ。

 

 

「先生、牛丼って食べられますか?」
「牛丼って、あの吉野家みたいなの?」
「はい、私、食欲がなくなった時でも、あれだけは食べられるんです。付き合ってくれませんか?」
「付き合ってもいいけど、牛丼じゃなきゃだめ? 何か他のデリバリーを頼んであげようか?」
「だめなんです、牛丼じゃないと」
 川原は苦笑して、小さく首を下げ、ジャケットを脱いだ。
「太りそう」
「やった、ちょっと裏門前で買ってきます。待っていてくださいね」
 そう言うと、菜々子はピーコートを羽織って走り出した。廊下の照明の落ちた研究棟にはあちらこちらに誘導灯だけが光っている。
 石の手すりのある階段を駆け下りていくと、体に新しい酸素が入り呼吸が楽になる気がした。
 玄関の前まで着く。守衛室に向かって頭を下げて、夜でも一箇所だけ開いている扉へと進んだ。
 ポケットのスマホが振動しはじめたから、何かトラブルがあって川原からの呼び出し電話かと思い覗くと、ラインに登録しているジヒョンの顔のアイコンが表示された。

 

 

 玄関前にライトが光っており、目をこらすとオートバイの車体が反射するように光っており、やがてライトを落とした。
 スマホを手にしたジヒョンがこちらに向かっていた。その腕を振り、後ろに長身の人影が見えた。謙太に違いなかった。
「終わったの? 菜々子。よかったよ」
 ジヒョンが駆け寄る。
「違う。お腹空いて、牛丼買いに行くとこだった」
 ジヒョンが吹き出すように笑い、後ろを振り向く。
「謙太、私たちが、天才じゃない?」
 そう言って背後に隠し持った袋を掲げて見せたのは、どうやら牛丼のようだった。
「差し入れだよ。一緒に食べようと思って」
 ジヒョンが言う後ろで、謙太は居心地が悪そうにこちらを見ている。
「だけど、先生の分もいるんだ」
「じゃあ、俺はいいから、これで帰るよ。じゃあね、ジヒョン」
 謙太の声を聞くと、急に彼が大切に思えてきた。その声が謙太の温もりを思い起こさせた。
「帰らないでよ、もうすぐ最終工程。鑑定結果が出るから」
「そうだよ、行こう、謙太。私が強く誘ったんだ」
 ジヒョンは楽しいことが待ち受けているように朗らかだ。せめて、自分がしていることは伝えておくべきだと思った。友達なのだから。

 

「ジヒョンにはまだちゃんと話していなかったけど、私、血液型が両親と合わないんだよ。それで自分でDNA型鑑定を始めたんだ」
「そういうことか」
 短い間があり、水滴をこぼすようにぽつりと言った。それが菜々子には優しく響いた。
「この間、献血の時にわかって、それでまずどういうことか知りたいと思った」
 ジヒョンが何度もうなずく。
「夏のことだ。じゃあ、ずっと苦しかったんでしょう」
 謙太はいまだにこちらをまっすぐ見ない。
「謙太、牛丼もう一つ買って来てよ。それで、七階に上がってきて。守衛さんに伝えておく」
「OK」

 

 急にいつもの間合いで、謙太が返事をしてくれて、彼は再びオートバイにまたがった。ライトが灯り、オートバイは息を吹き返した生き物のように、瞬く間に明かりをこぼしながら、その背中は消えていった。
 牛丼を手にしたジヒョンが、殺風景な建物の中を見回しながら階段を上がっていく。
「菜々子がそんな苦しい思いをしていたと、私知らなかったよ。お腹が空いていることくらいしか想像できなかった」
「いや、牛丼はまじ天才」
「菜々子が笑ってくれた」
 と、ジヒョンは、眉尻を垂らした。

 

 

 ゼミ室の扉が開いていて、再び白衣を羽織った川原がどこからともなく現れた。
 留学生のジヒョンを紹介する。
 少し驚いている川原に、ジヒョンの方が屈託なく、
「一緒に食べましょう」と、牛丼の袋を持ち上げる。
「それからもう一人、後から彼氏が来ても構いませんか?」
 川原は、瞳を動かし、へえ彼氏いるんだとばかりに首を傾げた。
「あなたがいいなら、いいわよ」
 謙太も合流し、四人になって、皆でゼミ室のテーブルを囲んでペットボトルのお茶で牛丼を食べた。
 菜々子は何度か、シーケンサーのディスプレイを確認しにいき、すべてのサンプルのランが終了するのを待った。
 ここから、いよいよ最終ステップだ。

 

 8 .個人識別の解析ソフトで、各サンプルのDNA型を出す。

 

「先生、電気泳動は終わりました」
 ゼミ室には、甘辛い牛丼の匂いが漂っている。謙太がテーブルを片付けてくれている。
「じゃあ、やってみますか」
 ここからは、もうサンプルなどの有機物は介在せず、パソコン上で解析ソフトを使っての、各人のDNA型の検出だ。
 電気泳動までできているのだから、採取されたサンプルは何かしらの答えを出すはずだ。ここまでに、家族のサンプルはいずれも溶解され、純化され、必要な DNA型だけが増幅されてきた。その値が、パソコン上で解析されていく。
 少しずつプリントアウトされ始めたのは、一見すると幾列ものバーコードのような表示だ。
「これはね、DNA上の地図のようなもの。星座のようでもあるかな。繰り返し表示される遺伝子多型が書き表されてくる。ここでは基本的に鑑定には十五座位を用いるの」
 子どもの地図から、母親の分を引いた多型が父親に現れているものなら、親子の確率は極めて高くなる。この判定は実習でもすでに学んだ。
 法医学教室に持ち込まれる最も多い親子鑑定の依頼は、父親が生物学上の父親かどうかを見極めるこの鑑定だと聞いた。
 けれど菜々子には、父と母のどちらが違っているのかが、わからない。表れた座位の読み解き方を川原から直接訊けるのがありがたかった。

 

 

 母、父、弟、そして自分の地図がそれぞれれプリントアウトされてきた。
 川原が椅子に座り、ゆっくり照らし合わせていくのが菜々子にも伝わったし、あらかた勉強していたので、まるで理解できていないわけではなかった。
「これはちょっと」
 と、川原は言った。
「弟さんのを採取してあってよかった。こちらはきれいにアリールから鑑定できる」
 川原はもう一度、家族四人分の座位を見渡し、何度か、それぞれの、プリントアウトした用紙を重ねた。
「アリール、わかるわよね? 対立遺伝子のことね。両親のそれぞれから配偶子を通じて受け取る遺伝子がゲノムを作る。同じ型が接合すればホモ接合だし、違っていたら対立遺伝子、アリールになって子どもに存在する。彼の分から、このお母さんの分を引くと、このお父さんの柄とほぼ重なるの、わかるでしょう?」
「はい」
 菜々子はなんとかそう声を振り絞った。
「けれどあなたのは」
 と、プリントアウトした用紙をまず、MとFで並べ、その上方にPである菜々子の分を置き、指で各座位をなぞった。
「あなたのは、バラバラなの。下のどちらとも違う。ちょっと珍しい、見慣れないアリールが出てる」

 

「それは、どういうことですか?」
 謙太が、かすれた声でそう訊ねた。
「そうね、この場合は、二人ともが親じゃないんじゃないかなと思う。むしろ、アリールは民族ごとに違っているから。日本人としてはかなりレアな、稀なアリールになってる」
 菜々子は、心の中で電源が落ち、部屋の明かりが全て落ちたように感じた。
 机から手が離れていき、体が後ろに滑った。謙太の革ジャンパーの匂いがした。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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