第6章 ジヒョン(1)肉まん
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/12/11

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第6章 
ジヒョン(1)肉まん

 

 ジヒョンは夢を見ていた。
 茶色と緑のシマシマのロンパースを着ている。
 ベッドに寝かせられているが、その横には薄いピンクのベビー服を着たもう一人の赤ちゃんがいる。
 二人はまだ手を繋げるわけでもないのに、どちらも大の字になって寝ている。
 触れ合っても話してもいないのに、互いにもう一人の存在がすぐそばにあるのを感じて安心している。
 確か、自分の幼い頃のアルバムにそんな写真を見たことがあったからに違いないが、具体的な風景だ。
 夢の中では今、ピンクのベビー服の子は菜々子だ。二人で留守番をしている。この世界が心細いはずなのに、二人でいるのが少し楽しい。まだ寝返りすら打てない赤ん坊同士の夢だ。
 黄色いカーテンの隙間から朝日が入り込み、ジヒョンは目が覚めた。

 

 

 せっかく早く起きたから、少し散歩しようと部屋着の上にコートを着込み、首にマフラーを巻いて外に出た。
 ものすごく寒い朝だった。
 韓国と同じように寒い。でも韓国だったら、朝早くからあちらこちらに屋台が出ていて、おでんやトッポギの鉄鍋が湯気を立てている。
「アンニョンハセヨー」と、知らないおばさんたちも人懐こく声をかけてくる。
 どうしても訪ねたかったはずの日本に来てはじめて、少しだけホームシックを感じた。
 屋台の代わりにコンビニに寄って、レジの横の肉まんを頼んで包んでもらった。コートの胸に収めて、また来た道を戻った。
 コートの中で胸の中央が膨らんで、そこだけでホカホカ暖かく、おっぱいが大きくなったみたいだと思って、自分で少し笑った。
 ポケットのスマホの画面を開けば、姉たちからは相変わらず日に何度もカカオトークが来ている。

 

〈ジヒョナ、ちゃんと食べてる?〉
〈ジヒョナの好きなホットクのおじさん、今年も来てくれたよー〉
 この間は、モチッとした揚げパンの中から蜜が溢れ出す冬のおやつ、おじさんの写真まで添えられてきた。
 塾の帰りに何度食べたかわからない。ホットクの中でも、無口なそのおじさんが少し時間をかけて作ってくれるものは最高だった。
 その写真を思い出して、ジヒョンも肉まんを取り出すと、手のひらにのせて写真を撮った。寒いから、ちゃんと湯気も写っている。
〈今日はこれ。こちらのは、ふわふわで、中には美味しい肉が詰まっているよ〉
 立ち止まってそう書き送ると、すぐに次姉から返事があった。
〈太るよ、ジヒョナ。でも美味しそうだね〉
 ちゃんと食べろと言ったり、太ると言ったり、面倒臭いがそれが家族だと思っていた。
 姉や母たちから頻繁に届くメールを、はじめの頃は、菜々子は不思議そうに覗き込んできた。
「何を食べたかまで、毎日送りあってるの? ジヒョンたちって」
 タビケンでは、みんなが不思議がったから、菜々子の家族が特別冷たい雰囲気だと思ったわけではなかった。けれど昨日、菜々子が牛丼の店で呟いたことが、ざらざらした砂の塊のようになってまだジヒョンの中に残っている。自分は愛されていなかった、と感じていたと言うのだから。

 

 マンションのエントランスを入り、昨日見ていなかった郵便受けを開けた。
 ダイレクトメールやチラシに交じって、白い封筒が出てきた。
 急に心が高鳴って、一度目を閉じて裏書きを見た。
 博多の住所。
 そして、差出人の名前はこうなっていた。

 

 尊の母。

 

 慌ててエレベータを上がって、部屋の中に入りカーテンを開いた。
 なぜお母さんが?
 手紙を胸に押し当てると、肉まんの包みがペタッと潰れて、床に落ちた。
 まるで大切な気持ちが落ちてしまった気がして、ジヒョンはそれを拾ってテーブルの上に置き、手紙の端をハサミで丁寧に切っていった。
 三つ折りになった白い便箋、かさかさとした紙の感触がある。

 

 

〈ジヒョンちゃん
 懐かしいですね。覚えていますか?
 尊の母です。〉

 手紙はそうしてはじまった。
 万年筆で書かれた文字の日本語が、ジヒョンにはいつもよりずっと、頭に溶けていくように入ってきた。

〈先日は尊に心のこもったお手紙をありがとう。一緒に読ませていただきました。
 本当はお母さんが一緒に読んではいけないはずだけど、幼稚園の頃のジヒョンちゃんを思い出すと、きっと許してくれるような気がしました。
 お手紙からも、まるであの頃のままの優しいジヒョンちゃんの声が聞こえるようでした。
 日本の大学生になったのですね。お医者さんになる勉強をしているのですね。
 尊と、韓国でどれだけ一所懸命勉強したのだろうと話しました。尊がすごく嬉しそうでしたよ。
 お返事は尊本人からすべきだと思います。きっと誰より本人もそう望んでいるはずです。
 ただ、ジヒョンちゃんが医学生だと言うので、隠さず伝えると、尊は二年前にALSを発症して、その進行が早く、今は自分では返事が書けません。
 話すのも、機器を通して変換した音声でしか叶わず、私たち家族も今は尊の声を聞けません。
 念願だった設計事務所に入った頃から体調は悪化していき、神様はなんと残酷なことをなさるのかと思っていました。
 ただ尊は、希望を捨てていません。
 ジヒョンちゃんの手紙も、とても喜んでいました。頑張っているんだな、いつか日本に帰ってくるって約束したんだよ、と言って。〉

 

 途中から涙で文字が霞んだ。
 覚えていてくれたんだ、と思った。
 尊くん、ジヒョンは約束を守ったよ、頑張ったんだよ、ALSがどんな怖い病気かは知っているから、尊くんも頑張っているのがわかるよ、と手紙に向かって心の声をかける。

 

 

〈それでね、ジヒョンちゃん。
 尊はあなたに会いたいと言っています。
 私は正直、会わないという返事を想像していました。せっかく久しぶりに会うのに、尊は重病人です。あなたの前ではカッコつけたいでしょうに、よだれもこぼすし、常に痰の吸引も必要です。
 でも本人は会うと言うのです。ジヒョンちゃんは、心の優しい子だからって言うんです。
 ジヒョンちゃん、よく考えて決めてくれて構いません。
 あなたが手紙に書いてくれた幼稚園の頃の尊は、王子様みたいだもの。母親の私にとっても、その頃の尊は小さいのに立派な王子でしたよ。
 だから私は、あなたが尊を思い出の中で大切にしてくれるのでも、本当に嬉しいのです。

 いろいろ考えているうちに、お返事が遅くなりました。
 幼稚園のクリスマスページェントが懐かしいですね。お星様を頭につけて踊ったジヒョンちゃんを思い出しています。尊の母より〉

 

 

 クリスマスに幼稚園生たちが行ったキリストの生誕劇で、尊は三人の博士の一人を演じた。引っ込み思案だったジヒョンは、たくさんの星たちの一人を担った。
 今、ジヒョンは尊の星になりたいと思った。
 壁の時計を確認し、パソコンで飛行機の時刻表を探した。
 急いでシャワー室に飛び込んだ。
 どれだけ湯を浴びても、まだぬるまった涙が溢れてくる。
 会えるんだ、と思ったから。そして、尊の手に触れられるんだと、わかったから。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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