『過怠』特別編/冬の韓国取材~ソヒョンやパンギョを歩いて
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/01/08

『過怠』には、日本と韓国のふた組の家族が登場する。どちらの父母も、子どもを持ちたいと願った。

 

 

 執筆を始める前に、一度冬の韓国を訪れた。
 幾つかの場所を訪ねたのだが、この取材で探していたのは、私にとって大学生となって日本に留学する主人公をリアルに思い浮かべることのできる街だった。
 Seohyeon。
 書峴(ソヒョン)と発音するらしい。
 例えば、この街にとても惹かれた。
 新興都市と呼ばれ、約二十年かけて独自の発展を遂げたと聞く。若い人たちの新しい文化を育むゆりかごのような街だ。
 ソウル郊外に位置し、鉄道に乗って向かった。地下道に続く駅のすぐ上には、大きな百貨店があり、そこから外に出ると、秋葉原にも似た、小さな店がぎゅっと詰まったビル群に迎えられる。ぎっしりと看板の並ぶビルに対し道幅が広く、遠近法を間違えた絵のような構図だ。

 

 

 それぞれのビルの中には、PCルームと呼ばれるゲームのできるネットカフェや映画館、化粧品店、それに、コイン式のカラオケ・ボックスが組み込まれた店などがあり、おもちゃ箱をひっくり返したようにカラフルだ。タレントの名前を入れると、カレンダーなどに加工された写真が出てくる自動販売機もある。PCルームでは、休日の軍人さんたちが、のどかに対戦ゲームを楽しんでいる様子も見られた。
 どこも活気があって、ぶらっと覗くことができ、若い人たちはそれぞれのんびり過ごしているように見えた。
 ソウルやイテウォン、カンナムなどのよく知られている街と少し違ったこの街を紹介してくれたのは、東京でイベント関係の仕事をしている朴智宇(バク・ジウ)さんだった。色白で瞳が大きくお人形のような顔立ちの朴さんは、大学時代から日本に来ている。どれだけ勉強したのか、ものすごく丁寧で正確な日本語を話す。
 彼女に頼んで、三日間、一緒に韓国を歩いてもらったのだ。

 

 

 無理を言って、朴さんの母校であるソンナム市にある芸術高校や、進学のために熱心に通った塾へも立ち寄らせてもらい、またご実家にほど近いパンギョという新都市では、お母様からも、朴さんの高校生の頃のお話などを伺うことができた。静かな口調のお母様は、朴さんが日本に来てから、実は密かにご自身も日本語の勉強を始められていて、ゆっくりだが日本語で話してくれた。それに一番驚いていたのは、朴さんだった、という素敵な場面にも立ち会った。

 

 

 ソヒョンは、高校時代に朴さんが友人と休日を過ごした思い出のたくさん詰まった街とのこと。
 この街でも、パンギョでも、また落ち葉の積もった公園でも、屋台があちらこちらで湯気を上げていた。
 おでん、トッポギ、冬ならではのホットクという甘い揚げ菓子……湯気が上がり、その周りに人々が集う。どの食べ物から上がる湯気も、なんとも言えない人情味やどこか人懐こい雰囲気を伝えて来た。それに食事の席では、あちらこちらで人々が、爆弾酒などを次々とあけていく。楽しい場所には、活気が満ちていた。そうした場所では朴さんにも、東京で会った時よりも柔らかい笑みが浮かんで見えた。

 

 

 鉄道に乗ると、大きくて緩やかな河の流れに出会った。夕日を浴びて、銀色に光って見えた。

 

 

 私が以前、韓国を訪れたのは、数えてみるともう二十五年以上も前だ。当時、音楽プロデューサーをしていた知人が、韓国のエンターテインメントは今にすごいことになるよ、と言っていたのを思い出した。国が予算を投じて若いアーティストたちの育成に力を入れているのだと。
 実際、今はその通りになっているし、滞在したソウルでは何かにつけてIT化に成功した優秀な都市機能を目の当たりにしたのだ。同時に私には人々がゆったりして、喜怒哀楽に溢れ、血が通って見えたのは、印象的だった。IT化の成功は、人を無機的にするわけではないのだから、この印象に驚いているのはおかしいのかもしれないが。

 

 

 その取材に出たのが、二〇一九年の十二月のことだった。まさか年が明けて、その冬の間に、世界中がコロナ渦に巻き込まれていくとは、取材チームの誰一人、夢にも思っていなかった。
 このタイミングで訪れていなければ、取材は今もまだ難しかったと思う。
 それぞれの場所で今を過ごす人たちの無事を心から願う。
 朴さんや編集者をはじめとした取材チームのおかげで出会った韓国の風景や人々の姿を、小説の後半でも盛り込んでいけたらと思う。
 皆さま、『過怠』を、ここからもよろしくお願いいたします。

 

 

次回に続く(毎週金曜日更新)

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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