第8章 DNA(1)ロールキャベツ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/02/26

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第8章
DNA(1)ロールキャベツ

 

 謙太はサーちゃんのお気に入りだ。
 到着すると、すでに部屋の中にはトマトソースの、なんとも言えないいい匂いが漂っていた。
「えー! まさか、作っておいてくれたの?」
 叔父が亡くなってからも、サーちゃんは一人住まいの部屋をきれいに飾っている。
 窓辺には、織り柄の透けるレースのカーテンが揺れており、その手前には様々な品種のシクラメンの鉢植えが並んでいる。花びらの縁がぎざぎざのは、確かスワンという名前だったはずだ。
 壁のアップライトピアノは、菜々子の手習いのために買ってくれたもので、今は刺繍のされたカバーがかけられ、写真立て置き場になっている。ソファにも、手作りのクッションが並ぶ。そういうすべてはサーちゃんの趣味の世界で、普通ならどれも古臭くて正直苦手なはずなのに、一緒に住ませてもらっていた頃から、温もりに思えていた。

 

 

「菜々子が、謙太くんまで連れて来るって言うんだもん、慌てて買い物に走ったわよ。だけど、あと少しだけ待ってね。まだ煮込みが足りないみたい」
「やった」
 昔ながらの都内の一戸建ての鴨居や天井は、長身の謙太にはやや低い。大きな図体がいきなり目立つのだが、すぐにそうして拳まで握って見せる。そんな謙太の人懐こさを、サーちゃんは大切にしてくれる。
 今回は、一世一代の頼みごとをしにきたというのに、どうやら二人は、共にサーちゃん自慢のロールキャベツにありつけそうだった。そんなごちそうを今食べたら、泣いてしまいそうだと菜々子は思う。こんな日は、本当なら牛丼に限るのにな、とも。

 

「あれ、菜々子はそんな気分じゃなかった?」
 胸にエプロンをつけたサーちゃんが、タオルで手を拭いながら訊いてくる。
 菜々子は首を横に振って、そのままソファに腰かけた。謙太の方を見上げると、彼も隣に座った。
「なんか、あった?」
 サーちゃんの問いかけに、菜々子は息を一つ吸い込む。
「そうだ。コーヒーは、もう入ってるよ」
 そう言うと、すでに三脚のコーヒーカップや、シュガーポット、ミルクまで載せられてあるトレイが運ばれてくる。
 サーちゃんはそもそも丁寧な暮らしをしており、その上さらにこうして大歓迎するには色々な準備をしているはずだから、彼女自身が白鳥のようだった。ここではコーヒーは、ステンレスの保温ポットに落ちる仕組みになっていて、菜々子が住んでいた頃にも、朝はサーちゃんが出かけていても、いつでも温かいコーヒーにありつけた。
「おいしい」
 口をつけて、すぐに呟いていた。
 先ほど院長室で飲んだコーヒーは、濃くてほろ苦かった。高山はそこに角砂糖を二つずつ入れて、かき混ぜていた。
 床に落ちた資料に伸びてきた彼の手は、実は少し震えていた。あれは何だったのか。砂糖をかき混ぜる手も、カップを持つ手も震えていなかったのに。

 

 

「サーちゃんに、頼み事があって来たんだ。無理を承知でお願いします。私が生まれた病院に、母の代わりについていって欲しいの」
 そこまでは、なんとか感情を抑えて話すことができた。
「何か、調べ物なの? この間も、菜々子、確か電話でそんなことを言っていたわよね」
 一緒に腰掛けていたサーちゃんが、困惑を隠すように、一旦、キッチンへと立つ。鍋を覗いてきたようで、
「いい感じで、煮えてきたみたい」
 戻って来ると、そう言って笑みを浮かべた。
「代わりって言うより、母役をやって欲しいの。母のふりをしてくれないかな」
 サーちゃんは、眉を寄せて首を傾げた。
「菜々子の頼みなら何だってきいてあげたいところだけど、一体、何を調べてるの?」
 謙太が横で、その大きな手で、菜々子の背中をとんとん、と叩いた。そんなことまでしてもらって、謙太に頼りすぎだと情けなくなった。だから、一気呵成に話した。
「調べているのは、出生の秘密なの。多分私は体外受精で生まれたんでしょう? じゃないと、わざわざ世田谷までこないでしょう?」
 サーちゃんが、ため息をつく。
「そうか、そのことがすごく気になっているのね?」
 タオルを手で揉むように俯くサーちゃんの言葉を先に制した。

 

「違うの、サーちゃん。私がどこでどうやって生まれたかなんて、もう構わないんだ。私はどうやら99.8パーセント、父の子でも母の子でもないみたいなの。どちらの子でもない。弟とも、姉弟じゃない。だったら、私は誰の子どもなの?」
 そこまで話し、大好きなサーちゃんの顔に浮かぶ表情を、試すように見ていた。そして、その目に広がった驚きに、安堵していた。サーモンピンクの口紅が塗られた薄い唇を半分開いたまま、サーちゃんは呟いていた。

 

 

「なんですって? 菜々子、今、なんて言った?」
 と言うなり、首ふり人形のように首の揺れが止まらなくなり、
「ありえないわ。あなたが生まれた日から、私は知っている。その日にこの腕に抱かせてもらったんだもの。写真だってある。ってことは、まさかみずきが、別の男と? 違う。どちらも違うんだって菜々子、今、言ったわよね。そんなこと、大体、どうしてわかったって言うの?」
 謙太が、代わって答えた。
「血液型にご両親との矛盾が出て、DNAまで、菜々子が自分で鑑定したからなんです」
 謙太の説明に、サーちゃんの表情が、悲しみに大きく歪んだ。その震えも、菜々子は、じっと見つめていた。
「サーちゃんも、知らなかったんだね。それだけで私、今ほっとしてる。サーちゃんまで知っていて、私だけがずっと隠されていたのだとしたら、やりきれないと思った」
 サーちゃんの少し色の淡い目の光が、こちらに向かって揺らめいていた。
「怒ってもいいよ。こんな、試すようなことを言って」
 しばらく返事がなかった。けれど、サーちゃんの目尻に涙が滲み、それは怒りには見えなかった。

 

「菜々子がそんな不安な思いをしていたのが、辛いだけ。どうして早く相談してくれなかったの? おかしいんだよね、どういうことだろうって、サーちゃんにも言えなかったの?」
 そこまで言って、サーちゃんは謙太の方を見上げた。
「謙太くんが聞いてくれていたんだよね」
「いえ、僕にも最初は話してくれませんでした」
「菜々子って小さい時からね」
 思い出話に逃げ込もうとするサーちゃんに、菜々子はついひどい言葉を口にしていた。

 

「でもさ、サーちゃんと私だって、きっと血の繋がりはないんだよ」
「菜々子、そんなのやめようよ。」
 謙太の大きな手がまた菜々子の背中に触れようとして、思わず身を竦める。言われなくたってひどいのは、わかっている。でも、現実はそういうことなんだよ、と二人にちゃんと言いなしたくなる。これまで、子どものいない、サーちゃんとおじさんが、姪である自分を、我が子のように可愛がってくれた。だからはグレることもなく育つことができたのかもしれない。
 それが本当の姪ではなかったと知ったら、サーちゃんこそ、これまでの時間をどう振り返るのだろう。
 サーちゃんは、一度閉じた目を開くと、膝を一つ叩き、さてという具合に立ち上がった。
「ロールキャベツ、食べようよ。謙太くん、運ぶの手伝ってくれる?」
 謙太の真似をして、小さく拳を握る。
「もちろん」

 

 

 二人が、カーテンで仕切られたキッチンへと入っていく。食欲など湧いてくるはずがないと思ったけれど、大きなトレイがダイニングテーブルに運ばれて来る。途端にそこには鮮やかなオレンジ色のスープと、その中に浮かぶ緑のロールキャベツの色彩が広がった。謙太が、サーちゃんに教えられたらしい方法で、そこに銀のスプーンで丁寧にサワークリームを載せて刻んだパセリを散らす。ロシア風なのだそうだ。
 その後からサーちゃんが運んできたのは、白いご飯だ。ご飯の上にも、セロリが少しちりばめられている。謙太と菜々子がいつも好む組み合わせを、サーちゃんが精一杯美しく用意してくれていた。
「食べようよ」
 サーちゃんが菜々子に声をかける。
「ね、美味しいんだから」
「うん、うまそうだ」
 謙太もすでにテーブルについている。
 席について、スプーンでスープに口をつけると、無性に空腹を覚えた。

 

 その時、ジーンズの後ろポケットのスマフォが振動した。もしかしたら病院からかもしれないと画面を覗くと、「母」と表示されている。
「え、お母さんだ」
 菜々子が呟くと、サーちゃんは厳しい表情を浮かべた。
「後でいいじゃない」
 ダイニングテーブルには、しばらくその振動音だけが響いていた。いつも苛立っている母がそこにいるかのように。

 

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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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