第8章 DNA(2)沈黙
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/03/05

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第8章 
DNA(2)沈黙

 

 タビケンの部会が、久しぶりに開催された。今年の医師国家試験がようやく終わり、六年生たちも揃って晴れやかな顔を並べていた。
 新年度の新しい部長は男子の高橋真也先輩が選任され、前任のハルさんの手により、恒例の地球儀回しが行われた。

 

 

 部室の窓辺に置いた大きな地球儀は、タビケンの初代卒業生たちの寄付で購入されたものだ。前任者が、「せーの」と言って回す地球儀に、新部長が「ストップ!」の発声をする。止まった時に指先が指す土地の名を前任者であるハルさんが口にして、その地名のある国名を当てさせる。当たるまで新部長は続けねばならない。
「マスカット。簡単なのが来たわよ」と、ハルさん。
「あ、やばいやばい」と、新部長は頭を叩いている。
「はいじゃあ、僕が。オマーン」と、くせ毛が代わって答えを言う。
「では次、行くね」ハルさんは、地球儀に指先を向けて、生き生きしている。
「ストップ!」
「ルサカが来ました」
「まじすか?」
 また答えは出ず、代わって一年生が、
「ザンビアじゃなかったですか?」と、正解する。
「では、三つ目」
「ストップゥ」と、高橋先輩の気の抜けたような発声でハルさんが止めた先は、
「アンタナナリボ」
「おー、良かった。マダガスカル」
 と、新部長が解答し、無事に拍手で終了となった。この地球儀回しも、ある代は十回やっても当たらなかった。ちなみに昨年のハルさんは一度で、
「セントジョンズ」という首都のある長い国名を「アンティグア・バーブーダ」と即答した。「だってカリブ海はクルーズしたもの」と言うかっこいい答えは、後々皆によく真似されている。
 首都から国名を当てるなんて子どものような遊びだと菜々子は当初退屈も覚えたが、次第に、ここで声にされる地名は、誰もに見知らぬ地ではないのだと気付かされるようになった。毎年のように、新しい国や都市を旅した人が出てくる。地図の上の土地が、少しずつ馴染みの場所に思えてくる。今はそれがわかるから、この遊びは菜々子にも楽しいものになった。

 

 

 休み中に旅行をした学生を中心に、各自、近況報告も行われる。
 コーヒーは、ここでは好きに飲んでいい。テーブルの中央には、個性豊かな旅土産もこんもり並び、部会中にも、それぞれの手が好きなように伸びる。タビケン独自の光景だ。
 なかでも今日、人気を博しているのは、鶴の子という真っ白なお菓子、ジヒョンの博多土産だ。

 

「博多では、皆さまたちから力をたくさんいただいたり、貴重な情報をもらえたりして嬉しかったです。こちらのお菓子は、尊くんの家族からもらいました」
 そう報告したジヒョンへは、たくさんの質問が飛んだ。
「尊くんは織姫で自分の声を出せているんだってね」
 新部長の高橋先輩から問われると、
「はい、尊くんにとても似ている声だと言っていました」
「結局、お正月もそちらで過ごしたのね。ジヒョン、少しは役に立てたのかな?」
 ハルさんが眼鏡に手をやって、問いかける。
ハルさんの質問に、髪の毛を一つに結んだジヒョンが答えた。
「わかりませんけど、帰りには尊くんのお母さんがそうおっしゃいました。またゴールデンウイークには行きたいと考えています。それまでこの病気について、私がよく勉強します」

 

 ジヒョンは、改めて医学に出会ったのだと菜々子は感じていた。尊くんを自分の手で治したい。患っているのがどんな難病であっても、今日久しぶりに再会したジヒョンからは、そんな情熱が伝わって来た。
 同じ期間に、菜々子が出会ったのは、どちらかと言うと真逆の医療不信に近い思いだ。
 医師の国家試験は、年に一度しかない。二月に試験があり、三月中旬には合否が発表される。国家試験は、合格率が六割ほどだった時代もあれば、ほとんどすべて合格した時代もあり、日本医師会が厚労省に対し、時折見直しを要求しながら変化する。菜々子も順当に行けば、再来年には受ける。
 部長の引き継ぎが終了したら、ハルさんは学生最後の船旅に出ると、先ほど、報告していた。世界の色々な人に、できるだけ多く会っておきたいのだと話すハルさんも、すでに医師になる情熱を燃やし始めているように見えた。

 

 

 あの医師にだって、高山院長にだってそんな時期はあったのではないのか。若い日には、自分たちと同じように医学を学び、国家試験もパスしたはずなのに、今や彼は自身の息子に振り回されている。
 世田谷のクリニックを来訪してから十日が経っても、結局まだ何も連絡がない。受付で渡した菜々子の電話番号には連絡はなかったが、湯河原の母には、その日のうちに電話がかかっているのだから、カルテは見つかったはずなのだ。
 サーちゃんの家にいた時に母からかかってきた電話の理由はそのことだった。
 ロールキャベツをご馳走になった後に、折り返しの電話をかけると、母が訝しそうにこう訊ねてきた。
「ねえ、あんた、産院を訪ねたって本当?」
「行ったよ」
「何のために? まさか妊娠したの?」
 母の勘ぐりに、苦笑した。
「大学の授業で必要だったからだよ」
 母はそれ以上の質問はしなかったが、こう続けた。
「あ、そう。逆に世間話されちゃったわよ。母子共にお元気なんですね? 当院にとっても、ありがたい限りですとかって」
 それで高山親子は、母が生きているのを、確認できたのだろう。
「電話は、院長の息子さんでしょう?」
 短い沈黙があり、母は答えた。
「そうよね。院長先生は生きていらしても、もうご高齢ね」
「生きてるけどね」
 そう答えて、電話を切った。高山親子は、母の生存を確認してどうするつもりだったのだろう。

 

 サーちゃんは、その短いやり取りでも察したことがあるらしく、あの日帰りがけにこう言った。
「菜々子は、みずきには言えないんだよね。だとしたら、サーちゃんがついて行ってあげるよ。どういうことなのか、ちゃんと聞こう。連絡待っているから」
 それなのに、今か今かと待っている電話は菜々子の方には一向に鳴らない。何かをごまかそうとしているはずだ。
 これが、自分が休み中に出会った医学の一端なのだった。

 

 

「宮本は、なにか報告ないの?」
 新部長にそう問われ、
「残念ながら少し金欠につき、しばらく旅行はお預けです」
 と、答え、続けた。
「四年になって、お金も、気力も、学力も尽きて来ました」
「残ったのは、美貌だけ」
 と、くせ毛が茶々を入れる。
「まあ、そう言わずにそろそろ新歓の準備も始まるから、宮本たち新五年はよろしく」
 ここにいる半数以上は、親の代から医者である。新部長も、実家は九州の総合病院のはずだ。
 あの高山親子の様子を、菜々子はまた思い出していた。
 彼らにも、こんな時期があったはずなのだと菜々子は信じたかった。一緒に学んだ仲間たちがあったはずだ。そして、目の前の患者を救いたいと思った幾多もの瞬間が。
 救いたい?
 つまり、どうしても赤ん坊をと望む患者たちを、あの親子はどう救ったというのだろう。
 もう待つのは嫌だ。

 

 菜々子は、窓辺に差し込む早春の夕焼けを目にすると、勝手だとはわかっているけれど、
「すみません、そう言うわけで、今日はお先に」と、席を立った。ジヒョンがその後を、追いかけて来た。

 

毎週金曜日更新
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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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