第9章 異邦人(4)反切表
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/04/16

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

第9章
異邦人(4)反切表

 

 ソン ミンジュン
 ソン カウン
 本当の父母の名前のハングル表記をもらえないかと、ジヒョンに頼んであった。

 

 午前の最後の講義は、大講堂での臨床統合だった。
 一番後ろの方に座っていた菜々子を見つけて、ジヒョンが振り返り、駆け上がってきてくれた。
 ジヒョンは、赤いセーターに赤いリボンをつけている。菜々子は黒いジャンパーに太めのデニムだ。
「これ、大きく書いた」
 マジックで書かれた、棒線やカギカッコ、丸を組み合わせた文字が二列に並んだカードを手渡してくれた。綺麗なカードで、縁取りがある。ジヒョンがそのカードを丁寧に用意してくれたのを感じ、表面を指でなぞった。
「ありがとう。全然読めないけど」
 ジヒョンはクスッと笑った。
「でも、ハングルは本当は難しくないよ」
 講義が終わった講堂の席に、並んで座る。ジヒョンがレポート用紙に、もう一回、発音しながら二人の名前を書く。
 菜々子には今のところ、目の前で繰り広げられる手品を見ているかのようだ。
「ハングルは、母音と子音の組み合わせでできている。これは、ハンギリ表。こちらの列が母音、こちらの列が子音」
「ハンギリ?」
「そう、反対に切るって日本語では書く」
 ジヒョンの手にしたシャープペンで、するする書かれていく縦の列には、カギカッコや逆さにしたコの字、人に似た形や丸が並ぶ。横の列には縦と横の棒線に、一本、二本と線が伸びた記号が並ぶ。
 それらをブロックのように組み合わせることで、一つずつの文字ができるようだ。
「ア、ヤ、オ、ヨ」
 横の一番上の棒線が並ぶ列を、左から右に向かって声に出しながら読んでくれる。
 おそらくジヒョンも子どもの頃にそうして学んだのだと、その赤い口元を見ている。
「反切表は、韓国の子どもたちも、何度も見て覚えるよ」
「日本のあいうえおと同じだね」
「そう。だから私、日本語のあいうえお表を、ハングルで作って覚えたから、今度、菜々子に持ってくるよ。まあ、これからは勉強も忙しいから、その時間がないかもしれないけど」
「ううん、ありがとう」

 

 

 講堂から順繰り昼休みを取るのに、学生たちが出て行った。この春からは五年生で、いよいよ病棟に出ての臨床実習が始まる。
「実習、ジヒョンと同じチームにならない方がいいかもしれない。私、毎日色々韓国のこと、質問ばかりしそうだ」
「それはだめじゃない、菜々子。あと、本当のお父さんやお母さんのこと、どう捜す?」
「うん、考えてる。ジヒョンにも、手伝って欲しいし。今日、学食、奢ろうかな」
 すると、菜々子の顔を見入っていた、ジヒョンの方から切り出された。
「菜々子とお昼、珍しい。よかった。今日、私キンパ作った。どうしても食べたくなって、たくさん持ってきた。一緒に食べよう」
 そう言って、紺地に白の文字で〈BREAK〉と書かれたランチバッグを持ち上げる。
「キンパ?」
「そう、韓国の海苔巻き」
「すごいね、ジヒョン。そんなの作ったんだ。じゃあ、部室行こうか」
「それがいいね」
 と、二人で向かった。
 だが、その提案は上手くはまったとはいえなかった。
 部室には案外大勢の部員たちがいて、コーヒーを飲んだり、サンドイッチをかじったり。ソファで昼寝しているのは、次期部長だ。彼を含め実習中の五年、六年生は、よほど疲れているのか白衣姿のままだ。
「え、うまそ。ジヒョンの手作りなの?」
 次期部長が覗いてくる。タビケンの中でも無類の美味しいもの好きで、今年提出した部員スローガンには、「未知の扉を開く、中でも、未知の味に出会う」と、彼はわざわざ書いていた。
 四角い密閉容器に三段分もあったはずの海苔巻きは、みんなの手が伸びてきてすぐに品切れになってしまった。
 菜々子は少し物足りない気持ちだったが、食べ終えると、コーヒーを入れた。
 キンパははじめて食べた。
 見た目は日本の海苔巻きと同じようで、卵焼きやほうれん草の彩りも似ているが、コチュジャンの味付けの細切りになった牛肉や、人参が一緒に巻かれている。ごま油の香りが立つのが一番違っていた。二つの民族が作る、海苔巻きの異なる味わい。
「美味しかった?」
「すごく、好きな味だったよ」
 コーヒーカップを手渡しながらジヒョンに答え、二人で窓辺に向かった。
 窓から見える樹木は、緑が豊かになりつつある。
「私、韓国ではそんなに料理をしなかった。お母さんが作ってくださったから。でも、今は食べたいとき自分で作る。昨日は、本当にたくさんキンパが食べたくなった。この前はチヂミ」
 すごく食べたくなる、母の味。菜々子にそれがないのも、実の母ではないからなのか。いや、サーちゃんのロールキャベツなら時折無性に食べたくなるから、単純に湯河原の母の家庭料理をあまり食べる機会がなかったからなのかもしれない。旅館の賄いなどの料理が、いつも家庭にも運ばれてきていたから。
 二人で窓から身を乗り出して、コーヒーを飲む。講義の合間や終わった後に、ここから冷たい風に当たるのが菜々子は好きだ。頭の中にぎっしり詰め込まれた情報の熱が、ひんやりと馴染んでいく気がして。

 

「それで、菜々子の本当のお父さんお母さんのこと。もし韓国にいらっしゃるなら、韓国語の検索ソフトも使えるから、私だけでなく、私の姉たちも一緒に助けられるよ」
 菜々子の心の中を読み取るように、ジヒョンがそう言ってくれる。
「名前と、当時の住所しかわからないけど、手伝ってもらえるとすごくありがたい」
 ジヒョンは頷く。
「今、どんな気持ち? 菜々子」
 ジヒョンの瞳に、覗かれる。
「そうだな。線路が切り替わったような気持ちかな。向かう先が少し変わった」
 驚いたように、ジヒョンの目の中に光が集まった。
「線路?」
「そう、その線路をピューっと進んでいたつもりだったけど、ちょっと逸れた、みたいな」
 ジヒョンが両手にマグカップを持ち、窓を背にするように身を返し、天井を見上げた。
「不思議だ」
「どうして?」
「尊くんも、同じように言った。自分の病気がわかったとき、線路から外れたみたいな気持ちになったって言ってた」
 菜々子はジヒョンの声を通して、尊くんの話を聞いていた。
「でも、その先にも別の線路がちゃんと延びてた。すでに走っていた人たちもいたし、きっと後に続く人もいるから、僕は諦めないで最後まで走るよって私に話した」
 先輩方が、午後の実習へと慌てて出ていく。
そろそろ、自分たちも講義の時間だ。
 コーヒーを飲んでもまだ、口の中にキンパの味や匂いが残っていて、いつもならミントを含むのに今日はその未知の味も残しておきたいような気がした。
「ねえ、ジヒョン。医療は、人を救うはずだよね?」
「菜々子が言いたいこと、たぶんわかる」
「尊くんが出会う医療、私が生まれるきっかけになった医療、それを見つけたのも、医学に基づく研究」
 自分の新しい線路の進み方を考えようと菜々子は思った。
「あ、遅刻になる。急ごう」
 二人で、部室の外に出た。

 

 

 思わぬ連絡がジヒョンから入ったのは、その翌日のことだった。
 謙太と久しぶりに、少し寒気のゆるくなった公園にいた。噴水があって、ほとりにベンチがある。老夫婦がじっと宙を見つめて座っていたり、野良猫に餌をやっている人たちがいたり、一人きりで缶ビールを飲んでいる人もいる。大きな駅と駅の中間にあり、近所に住宅街もないからか、誰も人目を気にしていない感じがあって、時折二人乗りのバイクを停めて休んでいく。
 菜々子の部屋も謙太の部屋も広くはないから、外にいる時間の方がお互いにふっと心が解けて話すことが多い。それは最近に限らず、以前から変わらない。深刻な話は、本来好きではなかったから。
〈菜々子、今どこにいる?〉
〈いつもの公園にいる。謙太も一緒だよ〉
 すると、メールは止まって、電話が鳴った。
「菜々子のお父さんとお母さんと思われる人、うちの父と母はご存知だった」
 年長者に対する敬語は、自分の肉親に対しても使うのを、最近ジヒョンに教えられた。日本語がとても上手なのに、そこだけ間違っていると思っていたら、それは翻訳したところで消せないニュアンスなのだそうだ。
「ジヒョンから」
 心配そうに見つめる謙太に、説明する。
「見つけてもらえるかもしれないって」
 自分の本当の両親が韓国籍であったとわかった時、面と向かって言えずに、電話で伝えた。謙太はしばらく黙っていた。
 どんな顔をしていたのかはわからない。でもきっと自分が謙太だったら、複雑な表情をしたのではないだろうか。どこの国の人であっても、そこには当たり前の驚きがあるだろう。

 

 

「ジヒョンのところまで送ってくよ」
 謙太は、ベンチに置いてあったステッカーだらけの銀色のヘルメットを、菜々子に手渡した。

 

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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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