最終章(1)カモメ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/06/04

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

最終章(1)カモメ

 

 尊は、睡眠前に吸入麻酔薬を用いる。それは、彼が決めて取り入れている工夫だ。自分自身が、そして介護人ができるだけ長時間安定して心身を休ませることができるように、決めたようだった。
 同じ病の多くの患者が睡眠障害に陥るが、投薬を受け入れるかどうかは個々人の判断になる。睡眠のための薬が、睡眠呼吸障害を悪化させる場合もある。
 日中は介護士がやって来て痰の吸引などを行うが、夜間は尊の母や父が行っている。
 ロックド・イン症候群、多くが脳梗塞から起きる。脳からの司令が伝わらなくなって四肢が麻痺し、意識は清明ながら、動けず、話せず、鍵のかかった部屋に閉じ込められたような状態となる。ALSの尊も、今はこの状態だ。意思疎通のためにできるのは、眼球を動かすことと、まばたきだけなのだ。
 体の動きが段階的に不自由になっていき、今の状態にまで進んだ。家族がいたところで、長い夜をどれほど暗く感じただろう。言葉も伝えられない状態の中での苦しみに、尊はここまで一つ一つと向き合って、そして打ち勝ってきたのだ。

 

 

「ALS患者にも良い睡眠薬は、手当たり次第試した。僕のデータは、使えるよ」
「お母さんにも、たくさん眠って欲しかったからかな」
 ジヒョンが問いかけると、尊はオリヒメを通じて、別の考えを伝えてきた。
「いや、母というより、オリヒメが眠れるようにした。つまり、僕は眼球障害を起こすのはどうしても避けたい。僕は夜の間は目を閉じることにしたんだ」
 ジヒョンは、さくらの木幼稚園の先生に読んでもらった、シートンの絵本を思い出した。尊も、きっと覚えているはずだ。カラスが、夜にフクロウに襲われるのが怖くて目を開いたままでいたら、眼球が凍ってしまって失明したという話に、二人は衝撃を受けた。
 翌日も、翌々日も、二人で話した。その物語には、カラスの賢さを表す話がたくさんあった。カラスを見る都度、幾つかのエピソードが思い浮かんでくる。

 

 ジヒョンは、尊の部屋の床にマットを運び、今回の滞在中は同じ部屋で眠るのを許されている。
 眠る前に手を繋ぎ口付けをすると、尊の男性器は屹立した。それは、脳の指令とは別の反射により起こるのだが、パジャマの上から触れるのを許してもらった時、ジヒョンには、とても現実的な愛が宿った。

 

 

「グワァ、グワ、ググ」
 だが今朝、マットの上に体を起こすと、「おはよう」も言う前に、オリヒメがそう伝えてきた。
「それ、私が言った?」
「今日はずいぶんね。疲れてない?」
 尊の方を見る、動かないはずの表情が笑っているように見える。
「って言ったら嘘をつくことになるけど、できるだけ、ここにいたい。今日は、雨が降る前に散歩に出ようか」
 しばらく返事がなく、オリヒメは、こう伝えてきた。
「じゃあ、朝ごはんはちゃんと食べてきて」
「そうだね。お腹空いた」
 ジヒョンはそう言うと、尊をベッドから車椅子に運び、いつもと同じ看護をさせてもらい、顔と口元を拭ってリビングへと出た。
 キッチンからはすでにコーヒーの良い香りが漂っていて、横にある四人掛けのダイニング・テーブルの上には、置き手紙があった。
〈ジヒョンちゃんに尊をお願いして、少し買い物に出てきます〉
 綺麗な字の手紙の横には、紺色のレース地の食卓カバーがかかっている。天辺を持ち上げると、トレイにトーストとハムエッグ、小さなサラダが準備されていた。ジヒョンは改めて空腹を覚えたが、思わず、韓国では見たことのないそのカバーの写真を撮った。持ち上げて傘のように折り畳むと、トレイごとコーヒーカップも載せて、尊の部屋へと戻る。
 食事の用意をしてもすぐに食べられないようなとき、そうして食卓に傘を広げて、尊の母が過ごしていたのを想像する。

 

「食べるよ、私」
 尊は返事をしない。ジヒョンがトーストをかじるとバターの香りを、サラダを口に含むと新鮮な野菜の感触を、尊も思い出してくれているのかもしれない。
 食べ終わった頃に、
「まんぷくの顔を見せて」
 と、オリヒメが伝えてきた。
 少し考えて、ジヒョンは立ち上がると、昨日、続けて韓国から送られてきたメールを、尊の視線の位置に運んだ。

 

 韓国に旅立った菜々子は、ついに遺伝学上の父親と母親に会った。本当の両親は、ソウル郊外の漁村で海辺のレストランを営んでいて、そこには菜々子と同じ歳の女の子がいる。本当だったら、その子が日本の宮本家で生まれ育つはずだった子だ。
 みんなで記念撮影をした写真が、次姉からカカオトークで送られてきていた。
 説明が要らぬほど、菜々子はその中にいる一人の女性にそっくりだった。長い髪や手足の雰囲気も、薄いけれど幅のある肩の作りも、そしてその写真の中では何より同じように長い首を右に傾けていた。お父さんに似ているのは、特に黒々とした目の輝きだろうか。どちらかというと、お母さん似だ。
 その中央で中腰になっている菜々子は、いつにも増して美しい表情で笑っているが、いつもの屈託のない笑顔ではない。

 

 

〈海辺の街を後にしたら、菜々子は車の中でずっと声も出さずに泣いている。私たちは何もできないよ。ジヒョナ、どうしたらいい?〉
 と、次姉は韓国語で書いてきた。
 尊と過ごしていたし、すぐには返事ができなかった。
 けれど夜になると、菜々子本人からもラインメールが届いた。それは、もちろん日本語だから、尊にもそのまま見せた。
〈来てよかった。すごく、よかった。明日は上のお姉さんにも付き合ってもらって、ジヒョンの思い出の地巡り、してくるよ〉 
 そのメールには、韓国の安酒であるチャミスルの緑のボトルを手にして片目をつぶった、いつものおどけたような菜々子の顔写真。
〈taken by ジヒョンのオンマ〉
 とも書かれてあった。あのはにかみ屋のオンマも、居酒屋まで付き合ってくれたのだと知る。

 

「このお酒、知ってる?」
 オリヒメからの意外な問いかけに、
「ムロン」と、ジヒョンは韓国語で答える。
「どんな味さ?」
「うーん、特別、味は、ない」
「えっ!」
 オリヒメの弾けるような声が返ってきて、ジヒョンは笑う。
 もう一度、写真の中の菜々子を見る。今にも、賑やかな韓国の居酒屋の音や匂いが伝わってきそうだ。そこに、菜々子が混じっていて、たぶん必死に笑っている。
「本当のお父さんとお母さんに会ったあとは、菜々子は少し泣いていたと姉は書いてきたよ。でも、誰にも何もできないね」
 今頃になって、ジヒョンは昨日自分が抱いて戸惑っていた感情を尊に伝える。
「僕は、思うよ。僕は自分の病気がわかったとき、何を知ったかわかる?」
 オリヒメの声がゆっくり響き、ジヒョンが尊の肩に手をやると、声は続いた。
「多くの人が、その答えは絶望って想像するかもしれない。でも違ったよ。僕が知ったのは、自分の強さだった。むろん、散々挫け続けあとにだけど」
 ジヒョンは尊の肩を思わず撫でてしまう。そして、尊の顔のすぐそばに自分の顔を近づける。ジヒョンの癖毛の毛先が、尊の頬をくすぐっているかもしれない。
 その目が早く動いて、言葉を伝えようとしてくれているのがわかる。すぐそばで、その瞬きを感じる。
 ジヒョンは、思わず自分の手で尊の目を覆った。
「もういいよ。わかってる」
 オリヒメは沈黙した。
「菜々子も、きっと、そういう人だ」
 尊の目に代わって、ジヒョンはそう言った。

 

 

 神奈川の謙太の元に、菜々子から久しぶりにラインが届いたのも、その同じ、チャミスルの夜だった。
 それは真夜中で、謙太はパソコン上で、休み明けに提出の図面を引いていた。
パソコンの横にあったスマホの画面を逸る思いで操作する。
 だがメッセージに文章はついていなくて、ただ一枚写真が貼られていた。
 もしかしたら酔って間違えて送ったのかもしれなかった。菜々子のことだから、あり得る、と謙太は思った。それでも、嬉しかった。菜々子が自分とのラインのスレッドに指を触れたと思うだけで、心が熱くなった。
 けれど、そこに添付されていた写真をどう解釈していいのかは、わからなかった。
 グレーまじりの海の上に浮かぶ無数の雲の間を、カモメたちが飛び交っている。海には波飛沫が立っていて、カモメは風に煽られながら羽を広げている。
 そこに写されているのは、菜々子の心情なのだろうか。それとも、自分はもうどこかへ飛び立っていくよ、という別れのメッセージなのだろうか。
 二人でいると、会話の中でもよくそんなやり取りになった。謙太はいつも深読みをして、
「何、ひとりでコロコロ転がってんの?」
 と、からかわれた。
 今度ももし目の前で訊いたら、
「きれいな写真撮れたから、送ってあげただけじゃん。そんなこと言うなら返しな」
とか、言われるかもしれない。
 だからと言って、〈いい写真だね〉なんて、ノウテンキには返事はできない。
 結局、あれこれ考えて、
〈韓国の海だよね? そっちは寒そう〉と、少しは返信を期待して書き送ったが、既読もつかない。
〈こっちは暇してる、会いたいなー〉 
 と、数分後未練がましく送ったが、返事はないままだ。
 それでも、手の中のスマホから温もりを伝えられた気がした。
 謙太は、すぐにはレポートに戻れずに、サーバーに残っていた温んだコーヒーをいれた。

 

 

毎週金曜日更新
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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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