最終章(3)不可分
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/06/18

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

最終章(3)不可分

 

 卒業証書を受け取り、謙太は大学の講堂の前から銀杏並木を歩き出す。
 正門近くの購買部の裏に、オートバイを停めてある。スーツの上にコートを羽織った姿のまま、オートバイにまたがってエンジンをかけた。
 親や友人たちと卒業を祝い合う大群の中を抜け出して、謙太はある場所へ向かった。

 

 

「卒業したら、会おっか」
 菜々子の電話の声がずっと自分を励ましてくれた。
 韓国の旅から戻った菜々子は、医学部の勉強に専念しはじめたようだ。ジヒョンとは一度会ったが、彼女は留学期間をさらに延ばし、日本で国家資格を取ると決めた。
「だから、猛勉教するよ」と、言っていた。
 自分だけがまだふらふらしていた時期に、菜々子からは事実上フラれたも同然になった。
 彼女は自分で遺伝子を鑑定し、人工授精を行った医師を突き止め、本当の親を探しに韓国まで出かけたのだ。そして、帰ってくると、医学生に戻った。
「お互いに、がんばろう。我ながらありきたりな台詞だけど」
 最後の電話で、そう言われた。
 もう一度会って欲しいとか、顔を見て話せないかとか、それこそありきたりな未練は口にできなかった。ただ、自分も今はすべきことをしなくてはいけない。
 そう思っていたところに、菜々子が、「会おっか」と口にしてくれた。
 設計事務所への就職も、謙太は無事に決まった。そこでは、建築士の資格にも挑んでいける。やればできたことに一番驚いていたのは自分自身だった。
 オープンテラスになっており、中央には、大きなストーブがあるカフェ。菜々子のキャンパスの近くにあって、何度も二人で通った。菜々子は顔見知りの学生に見られても、堂々とデートしたから。
 すでに桜が咲き始めていた。
 ヘルメットを外さなくても、シールド越しに菜々子の姿を認めた。ついさっきまで白衣を着ていたような、ひっつめ髪にシンプルな淡いグレイのセーター、黒いパンツという姿だった。膝には、店が用意するチェックの毛布がかけられてある。
 謙太を見つけると、座ったまま手を振ってくれた。

 

 

 表情がずいぶん変わった、と謙太は思った。落ち着いた、力みのない、年齢より少し上に見えるような表情だった。
「できた? 卒業」
 相変わらず、話し方は性急だ。
 恋人同士だったら、甘えて卒業証書でも見せていたかもしれないが、
「おかげさまで」
 と、だけ答える。
「髪、切ったんだ」
 店員がやって来て、菜々子と同じカフェオレを頼む。大きなボウルに入ったそれなら、飲み終わるまでの時間が少しでも遠くなる。
「希望通りの就職先も、みんなおめでとう。やったね、謙太」
「トントン拍子過ぎるし、恥ずかしいけど、親父の力もどっかで働いてるのかもしれない」
 正直にそう伝えた。
 父は、建築士だ。一応個人事務所を開設している。建築士は売れっ子なら超がつくほど忙しいが、父は地方なのでようやくやっていけるくらいの実力だ。
 だが就職にあたっては、いろいろ相談に乗ってくれたのは確かだった。はじめて、一緒に二人で酒を飲んだ。建築士になっても生活出来ない諸先輩たちの話や、プレゼンに落ち続けた自分の話なども父はしてくれた。
 だが、一番心に刺さったのは、
「建築と権力というのは、分かちがたい関係にあるからね。街や都市の形成を担うのが建築で、それは時代を担う人間たちの権力の象徴なんだ。謙太が、その不可分の関係の中でどうもがいていくのか、就職はそのことをよく考えて決めたらいいよ」
 そう言ってくれた。
 自分に起きた色々な出来事や発見を、以前はなんでも菜々子に伝えていた。けれど、別れてからは、心の中で伝え続けてきた。菜々子なら、なんと言うだろうとか、どう聞いてくれたかなという風に。
 そんな癖がついていたから、今もすぐに言葉が出てこない。

 

 

「菜々子は、がんばってるんだろうね。さっき会った瞬間に、そう思った」
「女子として、やばいか」
「いや、相変わらずすごくきれいだよ」
 言葉にすると、泣けてきそうになった。
 父が自分にしてくれた建築と権力の話を聞いた時に、謙太の中では腑に落ちた部分がある。父が建築士であり、設計や図面、地域の主だった建築物には小さい頃から馴染みがあった。けれど、自分も建築家を目指そうとは思わなかった。何かをデザインするなら、オートバイや家具のようなものに惹かれていた。
 進学で工学部の建築学科を目指すようになったきっかけは、スペインのバルセロナに行った時だった。初めて、ガウディの手がけた建築物を見上げ、その中に足を踏み入れたときに、驚愕した。優しい曲線美でできた構造体は寛大で、それでいて鮮やかに伝わってくる力の太さがあった。こんな建築が可能だったのだと。
 上京して大学に通い始め、着飾った女の人たちを多く目にするようになった。特に誰も好きにならなかった。
 菜々子だけが圧倒的な存在だった。野性味溢れる目、しなやかに動く長い手足、そっけなくて素朴な言葉遣いに宿る本物の優しさ。本人を前に話したことはなかったが、菜々子はガウディと同じように自分の中に棲みついた。だから、一緒にいられたら、他には何もいらなかった。
 目の前で近況を話す菜々子を見ながら、謙太はそんなことを改めて思い直し、カフェオレを飲んだ。

 

 菜々子は、朝からほぼ大学病院に缶詰になっている毎日のルーティンを話しはじめていた。
「っていうか、地道すぎて、話すことないや」
 そう言って、屈託なく笑った。引き込まれていきそうになる澄んだ笑顔だった。
「ご実家とは、どうなったの? 心配していたんだけど、余計な心配なのかなと思ったし」
「なんで? 謙太、気を遣いすぎなんだよ」
 そうか、とだけ呟き、頷いて菜々子を見返した。
「いろいろ、まあ弟のこともあって、しばらく帰れなかった。でも今は、結構普通。弟も気の迷いだったって気付いたはずだし、みんな好き好んでこの状況を迎えたわけじゃない。前より、皆が普通の家族に戻ろうとした気もしてる。産院からは、それなりに慰謝料が払われたみたいだし」
 普通という言葉が切なく響いた。菜々子に普通なんて言葉は似合わないから。
「向こうの家族は、どうなったんだろう」
「だよね。実は知らないんだ」
 菜々子は残っていたカフェオレに、スティックシュガーの袋を開けて注ぎ入れた。すでに冷えたカフェオレの底で、砂糖は沈んで、きらきら光って見えた。
「私ね、その人たちの住所とか、産院にも伝えなかった。ものすごく温かい家族に見えたから」
 そう言って菜々子は、首にかかったペンダントに手をかけた。以前はしていなかったはずの雫形のペンダントトップは、菜々子の懐かしい首筋の窪みにうまくはまっていた。落ち着いた銀の色も、今の菜々子にぴったりだった。

 

 

「謙太―」
 名前を呼ばれてその方向を見ると、白衣で自転車にまたがったジヒョンがいる。
「卒業、おめでとう」
「ジヒョンも、お祝いが言いたいって」
 二人で向かい合って座っていた四角いテーブルで、ジヒョンがもう一辺に座る。
「婚約、やめたんだよ。ジヒョン」
 紅茶を頼むジヒョンを見ながら、菜々子が言う。
「先に言うけど、お父さんとお母さんが日本まで来て、ずいぶん泣かれて、でもわかってもらえたんだって。日本で奨学金がもらえるようになったんだよね」
 以前のように三人で、菜々子、ジヒョン、謙太と呼び合い、取り止めもなく話し続けた。みんな少しずつ違う。謙太の髪は短く切り揃えられていて、菜々子の首にはペンダントが光り、ジヒョンは今も三人の画像を撮ったが、送る先は姉たちとのカカオトークではなくて、九州の尊あてであるようだった。
 この時間ですらも終わらないで欲しいと謙太は思った。
「やっぱまだ寒いね」
 けれど、菜々子はそう言い、
「実習、始まる」
 と、ジヒョンは言って、彼女も紅茶に砂糖を入れてかき混ぜ、飲み干す。二人とも今はそんなに甘いものを必要としているのだと思う。
「今度は、私たちが卒業の時に、また会おっか」
 別れ際に、菜々子がそう言ってくれた。黒々とした目が謙太を見つめて、続ける。
「謙太は社会人だから、ごちそうしてもらおう。がんばるからね」
 と、立ち上がる。すぐ近くに、菜々子が立っていた。思わず腕を伸ばして、その肩を抱きしめていた。断りもなしに、抗うことができずに。

 

 

毎週金曜日更新

 

 

谷村志穂 tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。

 

写真/秋
2001年 東京生まれ
英米文学を学ぶ大学2年生。
好きなものは旅、猫、本と映画とウィンナーコーヒー。

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