最終章(4)ブザー
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/06/25

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

最終章(4)ブザー

 

 この頃の菜々子はといえば、タビケンの前部長から譲り受けた錆びかけの自転車で、大学構内を忙しなく移動している。ジヒョンや癖毛も、五年の後期からは皆似たように毎日が慌ただしく、タビケンの定例部会で顔を合わせるのが精一杯だ。
 自転車があれば、研究棟から研究棟への移動の時間と体力が少しでも節約できる。
「雨、来そうだな。今日はもう終わり?」
 髪の毛を一つに結んだ癖毛が、自転車競走のようにぎいこぎいこと違和感のある音を鳴らして漕いできた。彼の自転車は、前にかごがついたママチャリで、そこに彼のマスコットである、耳の丸いシロクマのぬいぐるみが鎮座している。心が挫けそうな時にぬいぐるみと目が合うと、ほっとするそうだ。
 はじめてそう聞いた時には、それはヤバイでしょ! と思ったが、この頃は癖毛までが可愛らしく見えてきた。
「いや、ちょっと寄り道する。バイバイ」
 と、ぬいぐるみの方に手を振ると、期待通り癖毛は声色を変えて、答えた。
「じゃあ、また明日ねぇ」
 湿り始めた空気、薄曇りにまだら模様のかかった夕映えの空。白衣の裾を広げた癖毛とシロクマの後ろ姿が、遠ざかっていった。
 今週も最終講義が終わった。白衣のポケットに収めた手紙を見せたい相手があった。

 

 

 法医学教室。
「川原典子」の名札のついた准教授室の入り口にあるカリタのコーヒーサーバーは、ある頃から菜々子も無断でセットするのを許されている。
 部屋にコーヒーの香りが漂い始めると、川原がちょうどゼミを終えて帰ってきた。ゼミ生も幾人かは、その香りに誘われ立ち寄る。皆が顔馴染みになっていて、軽く挨拶をしてくれる。
 しばらくは遠ざかっていた教室だった。頼み込んでやったこととはいえ、ここでの鑑定が自分の人生を変えてしまったように思った時期もあった。
 だから初めは自分自身が、受精卵レベルに後退し、法医学教室での一課題になったかのように感じた。
 だが、この頃は、ここへ来るとほっとする。いつも当たり前のように、事件や事故、死体の気配が漂うこの研究室。ここでは、皆が粛々と調査や研究を進めている。
 卒業後の進路はまだ未定だし、医局に残るかどうかも決めてはいないが、すでにここへはたびたび足を運んでいる。
 韓国の旅を終えてからは特に、菜々子の中に心境の変化があったのも理由だ。あの国の活気と熱気は面白かったから。出発前に抱えていた悲劇の感覚が、丸ごと渦に巻き込まれて流れ出ていくように思えた。大体、自分は医学生なのだから、自分に起きたことくらい向き合えなくてどうする? 思春期に入ってからずっと、明滅していた得体の知れない拠り所のなさにも、一つの決着がついたのかもしれない。

 

 

 ソヒョンの屋台で買った靴下を土産に川原の部屋を訪ねた時も、横顔の美しい准教授は、ほとんど灯りの消えた研究棟で、相変わらずたった一人居残って、作業していた。
「おう、元気だった?」
 久しぶりに会う菜々子に別段驚く様子もなかった。
「何か、データの採取中ですか?」
 遠慮がちにそう訊ねると、
「偶然だね。警察から依頼のあった、DNA親子鑑定中。あと七分くらいで判定がでるんだけどね」
「邪魔じゃないですか?」
「平気だよ。よかったら、一緒に判定を見ていく?」
 相変わらず、何も特別ではない、いつも通りの時間が川原には流れていて、それをカラッとした口調で伝えてきた。
 韓国を旅してきた報告を少し。そして、高山産婦人科医院の対応についても手短に報告した。肝心の高山義哲は、どこかに雲隠れしてしまったことも。
「なるほどね。それでも、病院は認めてはくれたってことだ」
「あれ、なんか幸運なんですかね?」
 菜々子が驚いて見返すと、川原は言った。
「長引く可能性はあるなと思っていたよ。取り違えの場合は、本来両方の鑑定が必要になるし、相手の行方がまだ特定できていないんだもんね」
「まあ」
 少し返事に窮した。
「実は、もう相手の当たりはついていて、あなたは会えた、とか?」
「どうしてわかるんですか?」
 川原は黙って微笑んだ。
「それも、単なる可能性の一つを口にしたまで」
 鑑定終了のブザー音が鳴り、菜々子も一緒に鑑定結果を見ると、そのケースでは、99.9パーセントが親子であった。
 別れた夫婦の間の子ども。元夫である男性は血縁を疑っていたため、弁護士を通じて鑑定を依頼した。
「自分の子どもだったとわかって、どうなるんでしょうね?」
 菜々子が思わず訊ねると、
「今回のケースは、親子関係不存在確認の訴えから始まっているからね。まあ、欲しかったのとは逆の鑑定が出たんじゃないかしら」
「でも、それが自分の子どもだとわかったのは事実」
 菜々子は急に、胸が苦しくなった。ミナモから降りていった海岸で、本当の母の目に浮かんだ戸惑い。その渦に、吸い込まれていきそうになった瞬間が不意に思い起こされる。
 やはり、法医学教室からはしばらく遠ざかっていた方がいい、そう思った事も何度もあるのに、気づけばやって来てコーヒーメーカーをセットしている。
 そのつど、川原とは禅問答のような時間になる。

 

 

「ねえ、それでもう高山医師とは会わずに終わりにするつもり? あなたはそれで前に進めそう?」
「私自身が訴えるとか、裁判とか、そういう意味ですか?」
 川原は首をゆっくり傾けた。
「まあ、それも一つではあるでしょうけど、知りたくはない? なぜ、そんな間違いが起きたのか? 間違いの可能性には、気づいていたのか否か? 気づいていたのだとしたら、いつだったのか? 高山医師は、いくらお年でもそれには答えなくてはいけないんじゃないのかしらね」
「知る理由は、今後の医療のために、ですか?」
 そのために、自分や二つの家族のプライバシーが犠牲になってもなのか? と、菜々子の内心にはどこか不貞腐れた気持ちがあったかもしれない。
 だが川原の答えは、ここでも少し想像に反していた。
「医療のためにっていうより、人間を知っていくため、なんだと思う。人間が犯す間違いを、知るため」
 まるで、次にその間違いを犯すのはあなたかもしれないのだと言われているような気持ちになった。あなたなのかもしれないし、私なのかもしれない、とも。

 

 

 次に川原を訪ねた時には、やはり自分の中にも知りたいと思う気持ちが膨らんでいた。
 だからまた、准教授室でコーヒーメーカーをセットして待っていた。飾らぬ川原は、ひどく疲れて見える時もあったし、実際、かなりオーバーワークをしているようだった。
 それでも何か質問を向けると、必ず明確な答えをくれた。
「高山医師にどうしたら、会えるのかわからないんです。病気だなんて、きっと嘘だとは思う。不意打ちで訪ねた時は、元気だったですから」
「丸めたメモも、ご本人がくれたんでしょう?」
 廊下にぽとりとソン家の人たちの情報を落としていった人影の主は、あれは間違いなく高山本人だった。ポケットから誤って落としたはずがない。きっとわざわざ菜々子に託してくれたものだ。
「宮本さん、手紙を出してみたらどう? 多分、高山医師を匿っているのは、医長である御子息なんでしょうから。当の医師は話したいんではないかと思うの」
「それも、単なる可能性の一つとして、ですか?」
「おっしゃる通りね」
 菜々子は何度か高山に宛てた手紙の草稿を重ねた。実習やレポート提出の続く時期だったので、万全とは言えなかったけれど、頭の中ではそれらが同時進行していた。
 最終的には、川原が自分の手紙を添えて、差出人名も彼女の名前として、高山義哲に手紙を出してくれた。〈DNA鑑定の講義を担当した教官として、そして一人の人間として、私もその理由を知りたく存じます〉と、書き添えられてあった。

 

 

 果たして半年も音沙汰がなく、もう諦めかけていた今朝になって、菜々子のポストに、高山からの返事が届いた。黒い万年筆の、筆圧の高そうな大きな文字で書かれた、分厚い手紙だった。 

 

毎週金曜日更新

 

谷村志穂 tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。

 

写真/秋
2001年 東京生まれ
英米文学を学ぶ大学2年生。
好きなものは旅、猫、本と映画とウィンナーコーヒー。

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