最終章(5)酷暑
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/07/02

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

最終章(5)酷暑

 

 万年筆で書かれた文字。黒のように見えたが、インクは深い茄子色だった。
 ポストから取り出した時に、乾いた封書の感触と、ずっしりとした紙の重量があった。
 白衣のポケットから、菜々子はその手紙を抜き出す。

 

 

「先生、今朝、ポストで見つけました。もしかしたら昨日のうちに入っていたのかもしれません」
 川原はその封書の宛名を見つめる。
「開かずに来たのね?」
「一緒に読んでもらえたらと思って」
 菜々子は、頷きながらそう答えた。

 

 高山義哲に手紙を出してみることを助言してくれたのは、川原だった。手紙には、わざわざ一筆添えてくれたのだ。
 それは、単なる講義の指導教官という立場を超えた手助けであったと菜々子は感じていた。
「じゃあ、開くよ」
 川原は机の上のなんてことはない文房具の鋏を用いて、封を切る。幾重にも折り重なった便箋を引き抜く。
 そして、菜々子に手渡した。
「まず、あなたが読んだらどう?」
 菜々子に向けて書かれた手紙なのだから、自分が読むのが当たり前なのに、いざ届くと、怖いような気持ちだった。
 半年も過ぎて届いた高山からの返事。老医師は、そこに何をしたためたというのだろうか。
 自分の出生について考える時間が、また濃度を増す。心の中に刻んだはずの韓国の家族のことだって、次第に遠い夢のようにも思い始めていたというのに。

 

〈拝復
 日々の流れ早く、貴女様からのお手紙に当惑のまま居りましたことは、頭を下げるしかありません。
 言訳ばかりになるまいか、ややもすると私は自分のしたことを肯定し始めやしまいか。
 ご質問への答えに行きつかぬことのないよう自分自身に言い聞かせて居ります。
 一九九六年、その夏は記録的な酷暑でした。
 当時私が院長を務めておりました高山産婦人科医院には、少し前より其々宮本家ご夫妻、そして韓国籍の宋家ご夫妻が、不妊治療のために来院されておりました。
 治療法は、何れのご夫妻も凍結保存した受精卵からの胚移植を望まれ、他の患者様方同様に、ご両家は全工程を成功されて、偶なり、誕生日を一日しか違えず、共に女児を出産されました。
 あの当時は、と書いてしまうと長くなるのが、老人の手紙の特徴なのでしょう。ですが私は幾度も読み返し、貴女様が知りたいことの答えには「あの当時」が必要なようにも感じて居ります。
 私は六十代に突入し、自らをオンボロ車に例えながらも、手技には、つまり凍結受精卵からの胚移植に絶対的な自信を有して居りました。この治療法が英国で発表されたのは、忘れもしない一九八三年です。国の認可は、三年後におりますが、私はそれを待たずに、不妊の長いトンネルを歩いてきた夫婦たちに、秘密裏にこの治療法を伝えました。誰もが、と言っていいほど、すがりました。わざわざ私の病院を訪ねてこられた患者様方は、もう他所で歩き疲れておられた。
 ですから、国の承認で正式にこの治療が始まった時には、私はすでに圧倒的な成功例を自負して居りました。
 湯河原から通われた宮本家も、異国の宋家も失礼かもしれませんが、未認可時代からの評判を聞きつけやって来られたはずです。
 私は、顕微鏡下では最高水準の精子と卵子を、日々更新されゆく最先端の方法で結合させていった。
 そして、凍結、溶解を経た受精卵から、最高の一つだけを母胎に戻していった。
 成功率はおそらく、どのリプロダクトセンターよりも、群を抜いていたと思われます。
 宮本みずき様と、韓国の宋ご夫妻のことは、不思議とよく覚えて居ります。失礼ながら、みずき様の夫君の記憶は抜け落ちて居ります。
 うだるような暑い日に、顕微鏡に向かって居りました。前夜のお産が長引いたこともあり、幾度も目眩を感じて居りました。ですが、手を休めることはできなかった。
 ご両家の胚移植の日が同日と決まり、培養室で双方のシャーレ上の受精卵を見ていた。集中するほど、意識が遠のいていきそうになり、私は体を休めるべきだったのを今は認めます。
 朦朧とはしながらも、二つのシャーレを机に置いて、双方の受精卵の愛らしい輝きに見入っていた。私はその時間に、いつもながら酔いしれていた。自分が創造主にでもなったように思っていた。受精卵はすでに神々しい命であり、個性と人格を持った存在に思えるものです。
 看護師へ、準備が整ったことを伝えようと内線電話をかけました。
 ですが、なかなか応答がない。それに酷く苛立ったのも、疲労が原因だったでしょう。汗が止まらず、部屋を出て、直接ナースステーションへ向かうと、看護師はのんびり菓子を口にしていた。私は小声を長々と口にして、もう一度培養室へと戻り、机に向かった。
 その時、混乱が生じました。
 どちらがどちらのシャーレなのかが、わからなくなった。否、受精卵が教えてくれるはずだと言い聞かせた。
 嘘は吐きません。そんなことははじめてでした。ひどく動揺し、蓋を閉めることができなくなった。閉めたら、創造主どころか、人として失格である。わからぬ以上、閉めてはならぬ。
 すぐに、看護師に電話をしようと思った。
 このご両家への胚移植は見送りで、もう一度、受精卵を作り直す必要が生じた。宋家へは、別の受精卵の溶解という方法がありましたが、宮本家の凍結受精卵は、それが最後になっていました。
 両家には、何れにしろ、今回は中止であると早急に伝えるべきだ。そうでないと、取り返しのつかないことになりかねない。
 けれど私は、そこに輝く命を破棄することができなかった。間違えるはずがない。こちらが宮本家で、こちらが宋家でよかったのだ。祈るような気持ちで、蓋をした。午後になり、予定通りの胚移植をした。妊娠は、何れもが成功した。
 取り違えは、かくも安易に生じました。なんの弁解の余地もない。あまりに原始的だ。二つの名前のついた蓋と、シャーレを間違えたのです。
 今では、医師本人が培養することも少なく、たった一人が確認作業もなく培養室にいることもないはずです。凍結受精卵の管理は、厳重になされる。ですが当時は、あり得たのです。〉

 

 そこに書かれた受精卵の一つこそが、自分なのだ、と菜々子は思う。間違えられて蓋をされたという箇所を読んだ時に、閉じ込められたかのような息苦しさがあった。
 そこまでの便箋を、川原に手渡して、菜々子は息を一つついた。
 冷えたコーヒーに砂糖を入れて、溶けないまま口に含む。続きを読んだ

 

〈私がこの間違えに、いつ気づいたのか?
 その質問への答えは、これでは不十分です。
 二人の女児が健康のうちに、一日違いで産声をあげました。
 確信がありました。
 これは取り違えだと悟った。どちらも赤ん坊のうちから美しく、心身の弾みも見事だった。然るに、母親の胸に抱かれた女児たちは、双方もう一人の母親とよく似ていました。一番は、指の形だった。
 二人はそれぞれ違った母親の胎内をゆりかごに育ち、出産されたのです。
 私はまず、姑息な思いつきに囚われました。夜半、誰も知らないうちに、赤ん坊を入れ替えておいたらどうか。そんな幼稚な思いつきにまで囚われ、夜半の院内を徘徊した。
 宋家では、すぐに粉ミルクの授乳を選びました。こちらに生まれた女児は、夜にはよく哺乳瓶からミルクを飲んで、乳児室に運ばれていき、よく眠る乳児でした。父君は夜には帰宅され、母君も深く就寝された。
 しかし、宮本家に生まれた女児である貴女様は、短い感覚で母乳を求め、みずき様も何とか母乳を与えようと苦心され、赤ん坊が足りないと泣くと、母君も一人で泣いておられた。どうして母乳がうまく出せないのかと、助産師たちにも真摯に教えを乞うた。少しでも出来ることをしたいのだと奮闘されて、赤ん坊をずっとそばに置いた。
 私は、当然ながら愚かな思いつきを諦めざるを得なくなった。
 そして次に賭けたのは、血液型が同じである可能性でした。
 宋家のご両親は、A型とB型のご夫妻です。血液型だけで言えば四型全ておかしくはない。一方、宮本家はご夫妻が共にO型でした。私は心の中で詫びながら、乳児である貴女様の血液型を密かに調べました。そして、B型の判定が出た貴女様の血液型を呆然と受け止め、母子手帳にはわざわざO型と書き入れました。違法行為であることは、重々承知して居ります。
 これは、いつか判明するはずでした。
 そして、裁かれるべきその時を静かに待つことにしました。私はその時を待って、リプロダクトからの引退を決めました。
 思いの外、長い時間が過ぎていきました。〉

 

 

 川原は、読んだ分の便箋を元通りに重ねていく。
 菜々子は、そこに書かれていた、宮本みずきと自分の始まりの時間を想像した。手紙をめくる音が、かさかさ、かさかさと響いていた。

 

 長い手紙には、まだ先があった。

 

毎週金曜日更新

 

谷村志穂 tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。

 

写真/秋
2001年 東京生まれ
英米文学を学ぶ大学2年生。
好きなものは旅、猫、本と映画とウィンナーコーヒー。

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