最終回 方舟
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2021/07/09

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

最終回 方舟

 

〈宮本菜々子様〉
 手紙の中で、もう一度呼びかけられた。
〈あと少しお付き合い願いたく存じます。
 裁きを受くる日を、私は待って居りました。息子がリプロを継いだこともあり、私はお産だけを担当しました。
 ある日、どちらかのご夫妻がやってきて、真実を訊ねるに違いない。その際には、全てを話す覚悟は固めておりました。
 ですが、やって来られたのは、貴女様だった。二十年以上も経ってのことだった。
 医学生だと貴女様はおっしゃいました。家族の遺伝子型を、自らの手で抽出し、鑑定したのだと。
 貴女様が今、ご自身やご家族の人生を狂わせた私を呪いたいお気持ちであるのなら、ここからの告白は忌まわしい限りでありましょう。
 嗚呼、ここに愚かしい自分が居る。
 やはり私は、自分を正当化してしまう。何故と問われるのなら、貴女様のような聡明で美しい人の始まりは、あの日シャーレの中にすでに存在したからなのです。私が棄却していたなら、それは美しい生命を無為に棄て去ったも同然なのです。
 この世には、多くの命が生まれてきます。
 貴女様方は中でも、選ばれて生まれてきた。選んだのは、私だと、内心では歓喜の声が上がった。
 頭のいかれた老人である。受精卵を作り出す行為の中に、私は自らの時を没入させ過ぎました。封印したはずだったのに、瞬時にその歓喜が湧き上がりました。
 それが、もはや押し隠す積もりもない正直な告白です。
 同じ血を分かつ可く、ご両親の元へ、母の胎内から生まれてくるのがお産である。その論理をすら、いつしか自分は見失ったのでしょうか。
 お母さんのお腹の中にいるときは、臍帯と胎盤を通じて呼吸をしている。妊娠が二十八週ほどになると、赤ちゃんは水生の生き物のように、水を飲んでは肺の中で膨らませ、呼吸の練習をします。貴女様は、もう大学では学ばれたことでしょう。
 そして、この世に産声をあげた瞬間を、世間は誕生と呼ぶ。
 親子とは、なんであろうか。
 誕生とは、どの瞬間をさすのか。
 なぜ多くの夫婦が、実子に拘るのか。養子ではいけないのか。
 子とは、両親の遺伝子を運ぶ船である。親が子を助けるのは、自らの遺伝子を載せた方舟の無事に船出させるためだ。
 そうとまで言い切る学者もある。
 自分の犯した罪を忘れたいがためなのか、この世に産声をあげた子らは、すべからく何れかの親を持つ天からの贈り物である、と今ここにいる老人は信じます。卵子と精子は受精卵となり、子宮というゆりかごの中で育まれる。母体から酸素と栄養を得て、生まれ出てくる練習までをして、自分の肺で呼吸をした瞬間に、パラシュートのように肺を開き、産声をあげる。
 子らはすでに、そこまでを生き抜いてきた。この世の温もりを求めて。
 然様であったはずの貴女様に過酷な苦しみを突きつけたのは、他ならぬ私です。
 斯かれど、貴女様にはどうか幸せの道を見つけて生きて欲しい。
 私の過怠をお許し願いたい。
 今からでもできる償いがあるのなら、何でも言って欲しい。己の不明を恥じながらも生き続ける限りは、もう逃げも隠れもいたしません。お約束をいたします。
 お若い方へ、長い手紙となりました。
 私が言えることでないのは重々承知ながら、立派な医師になってください。

 

 追記 ご担当教官の川原典子先生にも呉々もお詫びを申し上げたき。
 乱文乱筆ご海容の程を。    
 敬具
              高山義哲拝〉

 

 

 ため息すら飲み込んだ。
 シャーレの蓋を間違えてしまった。それほどにも単純な過ちで、高山義哲は、二つの家族を交差させてしまったのだ。
 彼は今、あまりに簡単に過ちを認めた。言葉では詫びているが、その告白をもってしてもなお、彼の言葉には得体の知れない傲慢さがある。
「私がこの手紙を然るところへ持って行けば、あの医師は逮捕されるのでしょうか?」
 少しして読み終えた川原は言った。
「法的な罪としては、もう時効なんじゃないかしらね」
「そういうことか」
 菜々子は呟いた。
「だけど、こういうことなんだと思う。医療過誤は、往々にこうやって起きる」
 川原は自分の首筋に華奢な手をやり、続けた。
「だからね、チェック機能を万全にしていくしかないの。一人の人間ができることには限界がある。高山医師が書く通りよ。医師だって疲れが限界に達すれば、過ちを犯すことがある」
 あなただって、私だってあるのよ、とやはり川原の言葉はそう言っているように響いた。それで生まれてきた人間の身にもなって欲しいという言葉を、菜々子は再び飲み込んだ。
「先生、お腹空きませんか?」
 川原の形のいい目が、こちらを見ている。
「でも、あなたのお誘いは、牛丼でしょう?」
「だめですか?」
「まあ、帰ろうよ。私も今日はもう出るわ」
 窓の外を見ると、さっきまで降っていた雨がもう上がったようだった。
 押し開けて見ると、空は思わぬほど澄んでいて、張り付くような夜気を感じた。
 キャンパスから表通りへと抜けていく道を、二人並んで自転車を漕いだ。どちらもの髪が風になびき、担当教官と学生だとか、女性同士だとか、そんなことが何も気にならなかった。
 高山のインクの文字に洗脳されたかのように、この世に受けた生の温もりを、川原に、そして自分自身に感じた。
「また、明日」
「いつでも、いらっしゃい」
「素敵な言葉だな」
「じゃあ、あなたも誰かに言ってみて」
 分岐点で菜々子は一度自転車を停め、そう言って走り去る川原の後ろ姿を見やった。

 

 

 生温い風が、どこまでも続いていた。
 街灯の照明の下を通り抜け、マンションの駐輪場に自転車を停めて、螺旋階段を上がる。
 冷蔵庫を開けて、キッチンのシンクに向かってトマトにかじりつくと、少し空腹が癒えた。
 スマホの画面の時刻表示を見て、少し遅いかもしれないと思った。いつもは、少し遅いかもとか、週末は忙しいだろうとか、風呂に入っているはずだとか、色々考えては画面を閉じていた。
 あれから宮本家の家族とは、直接話す機会を逸していた。弁護士からの書類に署名が必要だなどの理由で、何度か父親とメールのやり取りをしただけだ。
 コール音が響いている間、緊張で胸が弾けそうになった。私がそんな子どもだって、きっと知らないでしょう?
「宮本でございます」
 いつもの取り澄ました母の声。
「あ、えーっと」
 と、スマホを手に呟くと、
「もしもし?」
 慌てて耳から離しそうになる程、甲高い声が返ってきた。
「こんな時間に、平気だった?」
 返事がない。また明日にするねと言いかけて、少しだけ待ってみた。釣れなくされるのが不愉快で、いつも自分から先回りしていた。
「菜々子なの? 菜々子からの電話、待ってたよ。みんなで待ってた」
 急に、高山の手紙にあった、若い日の母の様子を想像していた。本当の子どもではないとも知らずに、赤ん坊だった自分のために必死に母乳を絞り出そうとしていた母。その子に、乳首を吸われた母。それを吸った自分の赤い口までを、まるで他人事のように想像する。
「大学が、ちょっと忙しいんだ」
「そうだと思ってたから、邪魔しなかったの。でもね、本当に待ってたよ」
 母の声も、今日の夜気のように生温く響いた。
「あのね、私のこと、産んでくれてありがとうって言葉があるでしょう? まさか自分が口にするなんて夢にも思ってなかったけど、今の境遇は、それがぴったりでしょう?」
「菜々子なのか?」
 電話の奥で、父の声が響いた。病院でも、もともと影が薄かったらしい。
「ちゃんと会って話したいけど、忙しいんだよね」
 父には聞こえぬよう話しているのか、小さな声だった。
「私たちは、家族でしょう? 菜々子にはたくさん不満があったかもしれないけど、私から生まれてきて、ここで育った。お腹にいたときから、私たちの子どもだったよ」
 当たり前の家族なら、交わすこともない言葉が行き来していた。でもそれが、今の菜々子には有りがたく思えた。そこまで言ってもらえるのなら、また帰っていいような気持ちになれたから。そして多分、韓国でも本当の母は、ハリンに対して、そう感じているのだろうとわかったから。
「ちょっと代わって」
 父の声が聞こえ、二人がしばし何か話し合っている。やがて、太く掠れた声が響き始めた。
「忙しいんだってね。ちゃんと食べているのかな」
「大丈夫、結構自分で料理してる」
 シンクの中のトマトのヘタがこちらを見て笑っているようだ。
「いつでも、帰っておいで」
 川原と同じことを、父が口にした時、菜々子の胸から、今日いっぱい浴びた夜気が溢れ出すようだった。
「ちゃんと卒業が決まったら、同期の仲間たちで、泊まりに行ってもいいかな?」
「おうおう、もてなすよ」
「その時、お父さんとお母さんに、仲間たちのこと、紹介するね。四年生に上がってね、韓国からの留学生とも、親友になったんだ。それに彼氏も呼ぼうかな。まだちゃんと付き合っていたら、だけど」
「そうか」と、父が、笑っているようだ。
「それに、サーちゃんにも、来てもらおう」
菜々子は次々と声に出す。前のめりになって話し続けないと、言葉が止まってしまいそうになるから。
「サーちゃんは喜ぶだろうな。今の話を伝えておくよ」
 湯河原の家の居間に乱雑に並んでいた碁盤や、新聞のクロスワード欄を思い出す。この家族に、自分の中にも、想像していた以上の愛着があるのに気づく。父とは、小さい頃よく碁盤に向き合った。碁が好きなくせに、負かされてもさして悔しがらない父から優しさを教わればよかったのに、いつしか物足りなくなってしまった。
「とにかく元気でいるんだよ、菜々子」
「じゃあね」
 と、菜々子は声をかける。自分の方から切らないスマホの画面は、なかなかオフにはならなかった。
 やがてぷつっという音ともに、通話が切れた。ずいぶん久しぶりに、揺れていた糸を必死にたどって、その向こうにたどりついたかのようだ。どっと疲れを感じたのは、やはり緊張していたからなのだろう。
 菜々子は製氷室の氷を取り出し、口に含んだ。冷たくて、ほっとする。空腹や孤独を忘れてしまう。
 指につまんで取り出すと、手の平に水滴が光った。
 その雫が、菜々子の指の間から溢れていった。筋張った指をゆっくりとたどる光から、菜々子は、目が離せないままでいた。

 

 

(了)

 

谷村志穂 tanimura shiho
1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。

 

写真/秋
2001年 東京生まれ
英米文学を学ぶ大学2年生。
好きなものは旅、猫、本と映画とウィンナーコーヒー。

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