akane
2019/04/03
akane
2019/04/03
朝、ノックの音に目が覚めた。ドアを開けると、見知らぬ男が立っている。黒い手帳を見せられた。
〈警視庁刑事部捜査第一課
殺人犯捜査第1係 警部補〉
名刺の肩書に目を見張る。
ここじゃなんですから、とマンションを出た。近くの駐車場に停められた黒塗りの車の後部座席に並んで座る。運転席のもう一人の男は、片耳にイヤホンを差していた。
「……東部進さんの件です。もう、ご存じのように、多摩川の橋からロープで体を縛って入水しているのが見つかりました。東部さんは重度の神経痛で、手先が不自由だった。とても、ご自分でロープを縛られたとは考えられません……」
えっ?
隣席の男は、鋭い目つきで、じっと私の顔を見つめている。
「ええ、誰か自殺を幇助した者がいると思われます……」
衝撃が走った。ああ、そうか、私は疑われているのか?
震える声で、その夜のアリバイを話した。男は鋭い目つきのままで、手帳にメモを取っている。
その後、いろいろ訊かれたが、大したことは話せなかった。
取り調べが終わった、そう思われた頃、ふいに私の口が開く。
「失礼ですが、ところで、あなたは……先生のご著書をお読みになったことは、ありますか?」
えっ、と男は意表を突かれた顔をした。
「……いや、すみません、読んでおりません」
それから言った。
「あのー……何を読んだら、よろしいでしょうか?」
私は何冊かの書名を挙げた。
男は神妙な顔をしてメモを取っている。
運転席のもう一人の男の耳のイヤホンが、微かに揺れていた。
数日後、テレビを見ていたら、ニュース速報のテロップが出た。
〈東部進氏、自殺幇助の容疑で在京テレビ局の男を逮捕〉
……ああ、小山田さんだ。すぐにわかった。考えないではなかった。しかし、考えたくはない。即座に頭の中で打ち消していた。
そう、東部先生が最後に頼れる相手といえば、彼しかいない。小山田さんは、先生の最後の願いを叶えたのだ。それが罪に問われることを充分に知りながら。きっと後悔はないだろう。
そう思えば、斎場でのあの満面の笑みの意味が、今、ようやくわかる。あの笑顔は、誇りに満ちたものだった。
私だったら、どうだったろう? そう考えてみる。もし、東部先生に頼まれたら……いや、とてもできない。絶対に無理だ。
逆に、先生の立場となったら? 私に小山田さんのような最後の望みを叶えてくれる人がいるだろうか? いるはずがない。
目を閉じると、空が見えた。
先生と小山田さんと私と、三人で幾度も呑み明かした。朝を迎えた。
とても私には断罪できない。
同じ新宿の夜明けの空を、一緒に見た者として……。
(つづく)
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