第二話 おたく命名記(7)
中森明夫『東京トワイライトエイジ』

bw_manami

2019/04/15

​東京の黄昏を生きるすべての世代のために!  昭和/平成グラフィティー。
アイドル、ライター、カメラマン、作家、エディターたちが繰り広げる、あのころの物語――。
『東京トンガリキッズ』の中森明夫が贈る渾身の青春小説、連載開始!

 

 

 ……大変なことになった。
 私が六年も前に名づけた言葉が、急浮上したのだ。しかも、凶悪な犯罪者予備軍として。
「おたく」はひそかに広がってはいた。しかし、それはあくまでアンダーグラウンドやごくマイナーな領域でのことにすぎない。一般人には、そう知られてはいないだろう。
 かつてラジオ局のプロデューサーから連絡があった。番組で「おたく」を扱うコーナーがあって、ルーツを探ったら、私に行き着いたという。「使用許可を」と申し込まれたが、許可も何も、もはや自分のもとを離れた言葉だ、と返答した。
「〈おたく〉の研究」を単行本にしないか、と何度も持ちかけられた。乗りかけたが、結局、実現しない。「漫画ブリトー」での一件が、ずっと心に引っかかっていた。あれ以来、自分の文章で、実は「おたく」という言葉を使っていない。
 それが、突如、目の前に現れた。いや、「突きつけられた」と言ったほうが、正確だろう。
「おたく」の名づけ親としての中野秋夫に、マスメディアは一斉に群がった。連続幼女誘拐殺害事件の犯人をめぐる報道ヒステリーの渦中に。電話は鳴りっぱなしで、自宅に押しかけてくる記者もいた。
 私は逃げ廻った。これに応じてはいけない……。嫌だ。絶対に嫌だ。不吉な胸騒ぎを覚え、かたくなに拒否の姿勢を貫いた。
 編集者から送られてきたFAXが目に止まる。新聞の記事コピーで、今回の事件について書かれた文章だった。
〈……TVに映し出された彼の部屋の本棚にぼくがかつて編集した単行本の背表紙がちらりと見えた。ぼくが最初に編集者として足をふみ入れた雑誌のバックナンバーも並んでいた。彼がぼくの読者であった以上、ぼくは彼を守ってやる〉
 ほう、と思わず声が出た。
“小塚英士”の署名がある。
 ああ、“コツカ某”だ。かつての「漫画ブリトー」の編集者で、「〈おたく〉の研究」の連載を打ち切った。今では、評論家として何冊も著作を出している。
 その本を読むと、「おたく」という言葉が多出していた。皮肉なものだ。「おたく」を差別用語だと批判して禁じた彼が、今や「おたく」の専門家となり、その言葉の産みの親である私が、自らに使用することを禁じている。
 それにしても……。
〈彼を守ってやる〉とは、どういうことだろう?
〈……彼がおたく少年であるが故に幼女を殺したのだと世間が非難するなら、彼とぼくの感受性の間に差違があるのか自分では全くわからないぼくは、彼を擁護する。(略)彼が生きてきた不毛とぼくが生きてきた不毛がつながっているとわかった以上、そうする他にないではないか〉
 相当に強引な論旨だ。でも、私は胸を撃たれた。
 宮崎勤は、私より二歳下だ。私が中退した高校の後輩だった。そうして、彼の部屋の床に散乱した雑誌の中に、私が連載しているアイドル雑誌があったのだ。
 はっとした。胸が痛んだ。小塚英士と私とは、同じ痛みを共有している、と思った。
 小塚の雑誌「漫画ブリトー」がなければ、「〈おたく〉の研究」は書かれていない。小塚と私との確執がなければ、「おたく」という言葉はこれほどの広がりを持たなかっただろう。その「おたく」というフィールドに、彼はいたのだ。そう、彼――宮崎勤を「ぼくが守ってやる」と今、小塚は宣言する。
 何度もその記事を読み返した。
 その夜、私は編集者に教えられた番号に電話をかける。
「もしもし、小塚さんですか?」
「はい、そうですが」
「あっ、はじめまして、中野と申します」
「……中野?」
「中野秋夫です」
「ああ、中野秋夫さん!」
 それから私たちは話した。
 宮崎勤のことを。「おたく」のことを。「漫画ブリトー」のことを。マスメディアのことを。自らの胸の痛みと、八〇年代のことを。
 夜が更けるまで。

 

(つづく)

東京トワイライトエイジ

中森明夫

作家/評論家。三重県生まれ。1980年代から、ライター、エディター、プロデューサーとしてさまざまなメディアで活躍。著書に、『アナーキー・イン・ザ・JP』、『東京トンガリキッズ』、『アイドルになりたい!』などがある。Twitter:@a_i_jp
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