かつての「リトルバンコク」の面影を探しに――茨城・荒川沖
下川裕治「アジア」のある場所

コロナ禍で海外旅行に出られない日々が続きます。忙しない日常の中で「アジアが足りない」と感じる方へ、ゆるゆる、のんびり、ときに騒がしいあの旅の感じをまた味わいたい方へ、香港、台湾、中国や東南アジアの国々などを旅してきた作家の下川裕治が、日本にいながらアジアを感じられる場所や物を紹介します。

 

 前回紹介したリトルバンコク。茨城県。常磐線の荒川沖駅周辺に生まれた街だ。
 普通、リトル○○というと、エスニックタウンを呼ぶことが多い。その代表格が世界の街にあるチャイナタウンだろうか。入口には中国風の門があり、雰囲気をつくりだしている。リトルインディア、リトルトーキョウ……。どの街もその国にとっての異国感を演出している。
 しかしリトルバンコクには、そこがタイ人の街だと思わせるものはなにもなかった。タイ風の寺があるわけでもなかった。バンコクのスワンナプーム空港にあるような鬼の像があるわけもなかった。

 

駅から歩いて10分ほど。かつてのリトルバンコクは面影もない(写真/中田浩資)

 

 荒川沖駅に降りた人の目に飛び込んでくるのは、常磐線沿線の駅にありがちな風景だった。当時、この一帯は、ぎりぎり東京への通勤圏といった場所だった。東京から向かうと、荒川沖駅のひとつ先が土浦駅だった。筑波も近い。そこで働いている人もいたかもしれない。
 しかしここはリトルバンコクだった。
 その入口は荒川沖駅だった。駅前で僕は電話をかける。タイ語で「駅にいる」と伝えると、ものの5分ほどで1台の車が現れた。タイ人向けのタクシーだった。運賃は一律1000円だったような記憶がある。行き先をいうと、すぐに発車した。
 車にはタクシーメーターもついていなかった。一般車である。つまり白タクだった。荒川沖に暮らすタイ人の多くは、日本語を話すことができなかった。日本のタクシーは利用しづらい。そのなかで、自然発生したタクシーだった。
 タクシーに乗ると、この街に広がるタイ人世界に簡単に入っていくことができた。タイ料理店、スナック、食材店、送金屋、クラブ……。荒川沖にはたしかにバンコクがあった。
 こういった街をなんといったらいいのだろうか。二重都市とでもいおうか。日本語で入れば日本人の街があり、タイ語で入ればタイ人の街があった。
 街にタイ語があふれているわけでもなかった。タイ料理店とスナックは日本人客を相手にしていたから、タイ語の看板が目立った。しかしそれ以外はタイ人向けだった。堂々と看板を出すわけにはいかなかった。
 この一帯に暮らすタイ人の多くが不法滞在だったからだ。多くが観光ビザで入国し、そのまま日本で働くタイ人だった。
 だから荒川沖周辺に暮らす日本人も、その規模や密度には気づいていない人が多かった。
「タイ人をよく見るな」
 程度の人もいたと思う。しかし街の外観からは考えられないほど、リトルバンコクは深く広がっていた。
 当時、どれほどのタイ人の不法滞在者がいたのかはなかなかわからない。20万人から30万人になるのでは、という人もいた。リトルバンコクは2000人から3000人ぐらいだったような気もする。

 

 リトルバンコクで稼いでいたのは、タイ人女性だった。スナックがその場だった。その先には売春の世界につながっていた。タイ人の男たちはそのまわりをうろうろしていた。タイ料理店やスナックのコックやボーイ、タクシー運転手、賭博場の使い走り、そして女たちのヒモ……。不健全な街だったが、皆、妙に元気だった。タイにいたときより、各段にいい暮らしができたからだと思う。
 タイ料理店の2階に、タイ人女性の売買センターのような場所もあった。日本に入国した女性がここに連れてこられる。そこに裏で売春に通じた全国のスナックの経営者がやってきて、女性を選んでいった。代金はひとり300万円が相場だった。この金は丸ごと女性たちの借金にすり替わる。
 僕がリトルバンコクにしばしば行っていた頃、このタイ料理店の2階に顔を出すタイ人女性が増えていった。彼女らは元売春婦だった。いわれなき借金を背負わされ、それでもなんとか払い終わった女性たちだった。彼女らはスナックのちいママになり、新入りのタイ人女性の代金を肩代わりし、売春を斡旋していった。そのマージンがちいママのものになる。このシステムを、タイ人は親と子の関係と呼んだ。騙されてやってきた若い女性を諭し、一人前の売春婦に育てていく。2~3年がすぎると、かつての子が親になっていく。ネズミ算式に、この街に巣くうタイ人が増えていった。

 

アジア系の食堂が並ぶ一角にあるタイ料理屋(撮影/中田浩資)

 

 トラブルがあると、よく電話がかかってきた。多くが病気だった。精神を病んでしまった人もいれば、中絶を希望する女性もいた。土浦の病院に担ぎ込まれ、そこから電話がかかってきたことも何回かあった。
 僕は彼らから金を受けとらなかった。タイ人らはそれでは申し訳ない……と、僕に記事になりそうなネタを教えてくれた。
 そのひとつが密入国の手口だった。成田空港での乗り継ぎ客を装ってトランジットフロアーに入り、そこから出国審査ブースの脇を、身をかがめて逆に進み、日本に入国してしまうという方法だった。
 カメラマンとともに成田空港に日参し、密入国の現場を撮影することができた。スクープだった。嘱託のようにかかわっていた週刊誌から金一封をもらった。
 後味は悪かった。タイでレストランのウエイトレスのような仕事だと騙されてやってきた女性たちだった。すぐにリトルバンコクのタイ料理店の2階に連れていかれる。そこで知らされる現実は残酷だったが、多くは2、3年後にはちいママになり、親になっていった。

 

 リトルバンコクはグロテスクな街だった。不法滞在が生んだ街でもあった。
 いまの荒川沖を歩く。当時の残り香すらしない。

 

中国雑貨屋もある(写真/中田浩資)

 

「アジア」のある場所

下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年松本市生まれ。旅行作家。『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。おもにアジア、沖縄をフィールドに著書多数。『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『世界最悪の鉄道旅行』(新潮文庫)、『10万円でシルクロード10日間』(KADOKAWA)、「週末ちょっとディープなベトナム旅」(朝日新聞出版)、「ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅」(中経の文庫)など著書多数。
YouTube下川裕治のアジアチャンネル

<撮影・動画協力>
阿部稔哉(あべ としや)
1965年岩手県生まれ。フォトグラファー。東京綜合写真専門学校卒業後、「週刊朝日」嘱託カメラマンを経てフリーに。

中田 浩資(なかた ひろし)
1975年、徳島市生まれ。フォトグラファー。97年、渡中。ロイター通信社北京支局にて報道写真に携わる。2004年よりフリー。旅行写真を中心に雑誌、書籍等で活動中。
https://www.nakata-photo.jp/
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