akane
2019/08/19
akane
2019/08/19
タイのチェンマイで、3冊のノートを渡された。表紙をめくると、一枚目に几帳面な文字が記されていた。
チェンマイでホームレスとして暮らす鈴木二郎(仮名)が書き綴ったノートだった。56歳だという。
鈴木がチェンマイにやってきたのは、2010年の9月だった。
その約1年前、彼は妻や子供にも告げずに東京の自宅を出た。失踪。昔の表現を使えば蒸発だった。10万円そこそこの金しかもっていなかった。彼はチェンマイでの死を覚悟していた。
ノートはチェンマイに着いた頃からはじまる。
*
俺には前歴がある。2009年6月、日本を脱出し、バンコク、チェンマイ、チェンライ、ラオスを転々とし、再びバンコクに舞い戻るも、資金も底をつき、途方にくれ、当初の決心もくずれ去り、友人の説得と助けもあり、2010年の1月に帰国。帰国後は以前の仕事関係者の紹介で主に現場工事、メンテナンスの仕事をした。
仕事のある間は、安ホテルですごして出費をおさえた。仕事がなくなると、再びタイへ。格安チケットを入手すれば、1ヶ月タイに暮らすのも日本で暮らすのも費用に差はない。
再帰国後、約2ヶ月働き、再びタイへ……。
俺には健康上の問題もあり、血圧、その他の薬も常用していたが、家を出てからは保険もなく、日本では医者にも行けないので、薬も手に入れることができなかった。市販で代用できるような薬を買って飲んでみたが、費用がかかるだけであまり効果がなく、体調不良の日が続いた。
その点、タイでは簡単に安く薬が買える。手持ちのお金を使い果たした所で薬も買えなくなるだろうし、その時はこの世とおさらば。楽になれる……。
そんな簡単に楽になれないことは、本人がいちばんよく知っているはずである。そんな思いを乗せながら、ボーイング777はバンコクに向かっている。2010年9月20日の早朝、バンコク着。そしてチェンマイへ。(中略)
ついにイミグレーションの手続きの期日。手元にはわずかな現金しかなく、1900バーツが工面できない……。
晴れてオーバーステイヤーの仲間入り……。チェンマイホームレスデビューにいたる。(中略)
タイ正月も近い4月初め、お金はなく、常にお腹をすかせた状態の日が続く。体重も当初からすると、約20キロ減。おかげで多少、血圧の方も改善したのか、薬がなくなって久しいのにまだ生きている。皮肉なものである。
そうこうしているうちに5月もすぎ、6月となる。お腹がすいた。お金はない。これからどうするか……。
いつものターペー門近くのベンチである。
売れるものはすべて売ってしまってなにもない。でも、なにかを買って食べるお金がほしい。強盗、恐喝。体力も度胸もない。
古本屋……悪魔が俺にささやいた。
でもそれはいけないことだ……。それではどうする。お腹がすいた……。
あの通りを入った古本屋は店の表に本を並べている。店の中からは見えにくい。死角になっているようだ。これから日が落ちると周りは暗くなる。周囲も見通しにくいはずだ。念のために下見に行く。大丈夫のようで、暗くなった1時間後に……やっぱり決心がつかない。ダメダ。やめよう。引き返す。でも空腹も限界だ……。
気がつくと2冊の本を保護していた。あくまでも保護である。
少し離れた別の古本屋へ。店員は本と俺の顔をチラチラと見、しばらく考えていたが、やがて120バーツ。俺、OK。120バーツを受け取り、古本屋を後にする。
でも後味の悪いものである。情けない。
だが俺の心とはウラハラに、時々保護をくり返す。(中略)
そんなことをしているうち、プラシン寺の高校で英語を勉強している見習い僧が、英語で日本語を教えてほしいという。俺もタイ語はダメなので、ま、いいか……。毎週日曜日の午後に教えることになった。
俺は先生という柄ではない。ましてや食べるためとはいえ、罪をくり返している。悪人の俺が、お坊さんに教えるとは皮肉なものである。
その後も日本語を教えてほしいという話があった。俺は人にものを教えることなどとんでもないことと思っていたが、相手が次々に押しかけてくると断りきれない。軟弱な性格である。
月曜日から日曜日まで予定がギッシリだ。多忙な毎日になる。
*
ノートはまだ続いている。2012年8月に警察に連行されてからも、ホームレスであることに変わりはないからだ。一時は中断していたが、日本語と英語を教えるために寺にも通っている。ホームレス先生である。ねぐらはアーケードバスターミナルが多い。
2012年の8月、鈴木は本の万引きの現行犯として捕まった。しかしいまも、チェンマイのホームレスである。
以上、下川裕治氏の近刊『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。(つづきは本書で)
下川裕治
1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、アジアや沖縄をメインフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。
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