akane
2019/08/12
akane
2019/08/12
「ここならやっていける」
料理に箸をつけるたびに白戸は呟いていた。材料が手に入りにくいということはあるかもしれないが、味つけがなっていなかった。だいたい味が濃い。だしの使い方も未熟だった。そんな話を何回もした。
「まあ、バンコクは外国だからね。ちょっと味が悪くても、客は来てくれるよ。日本とは競争のレベルが違うんだから。白戸さん、そんなにいうんなら、こっちに店、もてば?安い物件、探してあげるからさ」
知人は半分、冗談のような口ぶりでよくいったものだった。しかし母が他界し、自分で決断ができるようになると、その言葉が脳裡に浮かんできた。
バンコクは好きな街だった。あそこなら立派な店をもてるかもしれない。
母の四十九日のすぎた翌月、白戸はバンコクに向かった。心に決めてバンコクに向かったわけではなかった。料理にはそれなりの自負もある。しかし店を経営するとなると話は違う。そう簡単には決められなかった。仕入れの問題もある。タイ語はなにも話せないから、従業員に指示を出すこともできない。
ところがバンコク滞在中に、話が進みはじめてしまった。不動産屋の知人が、ひとつの話をもち込んできたのだ。
それは一軒の居酒屋を、そのまま引き継ぐという話だった。
客を装って何回も店に通った。コックのふたりには辞めてもらい、代わりに白戸がひとりで入る。彼らの働きぶりを見ると、白戸ひとりでこなせそうに思える。もちろんメニューは一新する。客の応対は、タイ人スタッフでなんとかなりそうな気がする。彼のなかで青写真が描かれていく。
600万円――。それが買いとりの値段だった。
それから半年後――。その金がきれいに消えていた。
「笑っちゃうぐらい単純な詐欺ですよ。いまになって思えばね。居酒屋を従業員ごと売りに出すなんていう話は、もともとなかったんです。知りあいの日本人を、私が信じきっていたんですね」
しかし彼は帰らなかった。そしてはじめたことは、道端の電柱にチラシを貼ることだった。
――和食弁当、宅配します。「白魚」
白魚は横浜にあった店の名だった。魚料理と苗字の白戸をかけて、父親がつけた店名だった。しかしバンコクに店などない。借りているアパートで弁当をつくる。注文は携帯電話で受ける。資本はなにもいらなかった。
「いまになって考えてみれば、あれは禊だったのかもしれないと思うんです。日本にいた頃にまとっていた上衣を脱ぎ捨てるっていうか……ね。アジアで生きる儀式だったようにも思えるんですよ」
詐欺はひとつの試金石のようにも思う。
意地になっても暮らしていく……という感覚でもない。かといって騙されたことを忘れたわけでもない。自分のなかの落し所をみつけたような気がする。そこらが分かれ道のように映る。
その感覚が身につくと、アジアは微笑んでくれるということだろうか
以上、下川裕治氏の近刊『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。(つづきは本書で)
下川裕治
1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、アジアや沖縄をメインフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。
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