akane
2019/08/02
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2019/08/02
コンビニで、深夜の時間帯を選び働く若者は皆、世間ではフリーターと呼ばれる人種だった。
音楽や芝居をやるためというタイプもいたが、高校を卒業してからずっとコンビニでアルバイトを続けている奴もいた。しかし彼らが一様に抱えていたのは、
「このままやっていてどうなるんだろうか」
という苛立ちだった。その心の揺れは周期的に襲ってくる……。そういったのは、バンコクに住む雅人(仮名)だった。
雅人は茨城県下の受験校を卒業した。映画が好きだった。大学受験を控え、両親に、「映画の専門学校に行きたい」と打ち明けた。しかしその言葉に、父親が反対した。
「とにかく大学に行けばなんとかなる。映画をやるのは、それからでも遅くないだろ」
進学した先は、東京の二流大学だった。英語が得意だった。そして選んだのが英語学科。いまにして思えば、あまりに安易な進学だった。
3年に進学するとき、大学を休学してアメリカに向かう。雅人のなかではひとつの計画があった。それはまず英語の力を磨き、そしてアメリカの映画学校に進学することだった。高校時代に抱いた夢を実行に移したのである。
アメリカのロサンゼルスの語学学校に3カ月通った。そしてニューヨークにある映画の専門学校に入学した。その授業はそれなりに面白かったが、仕事に直接結びつくというものでもなかった。
帰国した雅人は、自主映画を制作しているいくつかの会社に連絡をとった。そこで知るのは、自主映画の世界は給料を払って社員を雇う世界ではなく、自腹を切ってでも好きな映画をつくっていくという人たちが集まっているという現実だった。そこで雅人は大学を辞めてしまう。
将来はビッグな存在になると夢見てフリーターに走る若者の典型でもあった。
雅人は香港に行くことにした。
「友だちには、海外にいるだけで、なにかすごいことをしているように思われる気がしてね。直接のきっかけは高校時代からの友人なんです。彼と話していて、『もう映画は諦めようと思う』っていったら、『意気地なし』っていわれました。ムカッとしましたね。ただその通りなんです。映画、映画っていって、ニューヨークまで行って、そのあとコンビニのバイトばかりでしょ。出口がどこにもなかったんです」
香港映画になにかかかわれるのではという単純な発想だった。しかし事前にコンタクトをとったわけでもなく、ただ旅行者のように香港に渡っただけのことだ。しかしもう日本で暮らすつもりはなかった。
香港でなんとかしなくてはならなかった。しかし広東語が話せるわけでもない。
茨城の田舎に帰るという選択肢も頭をよぎった。そこには映画への思いを諦めることも含まれている。父親に頼めば、なにかの仕事を紹介してくれるかもしれない。若い頃、夢を追いかけて……。しかし雅人はまだ、なにもしていなかった。
もう27歳なのだ。
香港には1カ月いた。答えなど出るわけがなかった。しかしそのまま日本に帰る気にはどうしてもなれなかった。
雅人は香港からバンコクに向かう。バンコクではカオサンのゲストハウスに向かった。そこではいろんな日本人と出会った。
「バンコクは面白い。直感でそう思いました。急に楽になったというか、救われたというか。バンコクに行って、なにか急に目の前が開けてきたような気がしたんです。もう、この街にいたら、とやかくいわれないっていうような感じかな」
バンコクがそういう街だとしたら、僕はそれでいいのではないかと思うのだ。
以上、下川裕治氏の近刊『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の杜文庫)から再構成しました。(つづきは本書で)
下川裕治
1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、アジアや沖縄をメインフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。
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