akane
2019/08/28
akane
2019/08/28
検査として線虫を使うには、人の血液や尿などの検体で、がんがあるかどうかを嗅ぎ分けられなければなりません。
そこでまず、血液に対する反応を見ることにしました。が、これがうまくいきません。
そこで血液は早々にあきらめ、尿に切り替えました。あとで聞いたのですが、がん探知犬も血液は苦手だそうです。血液特有の匂いが邪魔をするのかもしれません。
尿に切り替えて、初めは原液を使いました。がん患者の尿と健常者の尿を使い、それぞれ線虫の走性を調べたのです。
ところが、がん細胞の分泌物やがん組織には近寄って行った線虫が、がん患者の尿には近寄って行かないのです。近寄って行かないどころか、むしろ遠ざかっています。健常者の尿からも遠ざかっています。
これでは、がんがあるかないかを判定することができません。いったいどうすればいいでしょうか?
突然ですが、みなさんは大便の匂いが好きですか?
なかには「好き」という人がいるかもしれませんが、大多数の人は嫌いだと思います。そして、そんなことをする人がいるかどうかわかりませんが、大便の匂いを再現するときには、インドールという物質を使います。
インドールをそのまま、もしくは高濃度(濃度10%以上)で嗅ぐと、まさしく大便の匂いがするのです。ところが、同じインドールをどんどん薄めていくと、いい匂いに変わります。濃度が1万分の1以下になると、ジャスミンの匂いがするのです。
この現象はよく知られていますが、なぜそうなるのかは謎でした。
線虫の嗅覚を研究していた私は、この「同じ匂いなのに濃度が変わると感じ方が違う」という現象に興味を持ち、線虫で研究することにしました。
線虫にも同様の現象があるなら、線虫をモデルにして研究すれば、人の嗅覚の秘密に迫れるかもしれないと思ったのです。
というのも、嗅覚神経上にあって匂い物質を受け取る「嗅覚受容体」の構造が、線虫と哺乳類はともに「7回膜貫通型Gタンパク質共役型」であり、類似しているのです。
線虫の嗅覚の研究では、アメリカにノーベル賞候補と目される大御所の研究者(ロックフェラー大学のコーネリア・バーグマン教授)がいて、彼女のグループがさまざまなことを解明しています。
彼女たちは、線虫が匂いをどのように識別しているかといった、いわば嗅覚の王道の研究をしていますから、私がたった一人でそこに切り込んでも歯が立ちません。
そこで私は、彼女たちが研究しないであろう、ニッチでおもしろいことを見つけては研究していたのです。匂いの濃度による嗜好性の変化もその一つです。
結果は、線虫も人と同様の反応を示しました。同じ匂いなのに濃度が高いと遠ざかり、低いと近寄って行ったのです。
この研究があったために、私は尿を「薄めよう」と考えました。希釈すればいいのではないかとピンときたわけです。これが3つ目の発想の転換でした。
通常であれば、このような場合は尿を濃縮しようと考えると思います。がん細胞から分泌された物質は、血液に乗って体中をめぐり、腎臓で濾過されて、ほかの老廃物とともに尿となって排出されます。尿に含まれる“がんの匂い”は、ごく微量のはずだからです。
しかし私は薄めました。結果は大正解。ちょうど10倍に希釈したところで、結果がきれいに分かれました。線虫はがん患者の尿に近寄って行き、健常者の尿からは遠ざかったのです。それが次のグラフです。
このときに調べたのは、がん患者20人の尿と健常者10人の尿です。線虫の反応は、がん患者20人全員の尿に近寄り、健常者10人全員の尿から遠ざかるというものでした。感度100%、特異度100%という驚異的な結果です。
さらに、がんのステージと人数(グラフ中の左下の表)を見ていただくとわかるとおり、線虫はステージ1のがんにも反応していますし、がんの種類にも関係なく反応しています。
私は驚きました。「もしかして、ものすごいことを発見したんじゃないだろうか?」と思ったのです。
ここまでは、がん患者20人、健常者10人の尿で証明実験を行なってきましたが、この段階で「感度100%、特異度100%とは、なんてすごい結果なんだ!」と、有頂天になって論文を書いてしまってはいけません。
中にはたった1例だけで「こんな素晴らしい結果が出ました!」と、報道発表をしたりする人もいますが、それは科学ではありません。
がん患者20人、健常者10人で行なったのは、あくまでも基礎検討です。基礎検討では、あまり検体数を増やさずに実験を行ない、結果の方向性を見極めるのです。
ただ、これでは精度を云々するには検体数が少ないため、検体数を増やして、本当に精度が高いかどうかを調べなければなりません。
そこで次に、提供を受けることができた242人(がん患者24人、健常者218人)の尿について、線虫の反応を調べることにしました。
結果は、がん患者24人中23人が陽性、健常者218人中207人が陰性と出ました。
すなわち、感度(がんのある人をがんがあると判定する確率)95・8%、特異度(がんがない人をがんがないと判定する確率)95・0%です。
これだけ検体数を増やしても、95%という高い確率で線虫の反応が分かれたのです。
これは私の20年間に及ぶ線虫研究のなかでも随一の、きれいな結果でした。生物研究では、こんなにハッキリした結果が続くことは滅多にありません。
私は「世界の誰も知らない発見をしたかもしれない!」と、興奮しました。顕微鏡の前でガッツポーズをしている姿は研究室の学生にも見られていたはずです。
当時私の妻は里帰り出産のために鹿児島にいましたが、私は会いに行くたびに走性インデックスのグラフを見せて「ほら、すごいでしょ! そう思うでしょ!」と熱く説明しました。しかし、研究者ではない妻には何のことかわからず、ただただ迷惑だったそうです。
さらに解析結果を見てみると、がん患者24人中12人はステージ0または1の早期がんでしたが、線虫の反応はすべてがん陽性でした。
また、これはあとでわかったことですが、がん患者24人中5人は、採尿時点ではがんが判明しておらず、この精度検証実験(採尿から2年後)までの間に判明した人たちでした。
じつは、このとき同じ検体で同時に行なった、従来の腫瘍マーカー3種による検査の結果(感度16~25%)と比較するまで、私は線虫の感度95・8%が飛び抜けて高いと気づいていませんでした。というよりも、従来の腫瘍マーカー検査の感度がこれほど低いとは知らなかった、と言った方がいいでしょう。
「大勢の人が受けているのに、腫瘍マーカーの精度ってこの程度だったの?」と驚き、念のため知り合いの医師に聞くと、「そうだよ」との返事。医師の間では常識だったのです。
ともあれ、ここまでのさまざまな実験の結果を踏まえて論文を書き、それがアメリカの科学誌の電子版に掲載されて大きな反響を呼んだのです。
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