akane
2019/08/27
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2019/08/27
線虫は匂いに対する感度と選択性が優れているわけですが、それだけではがん検査には使えません。どんなに微量のがんの匂いを嗅ぎ分けられても、「がんの匂いがする」と私たちに伝えることができなければ、どうしようもないのです。
この点においても線虫は、ありがたい特性を備えています。匂いに好き嫌いがあって(これを匂いの嗜好性と呼びます)、好きな匂いには近寄って行き、嫌いな匂いからは遠ざかるのです。
線虫には目も耳もありませんから、周囲の状況を匂いで判断していて、餌の匂いがする方に寄って行き、敵の匂いがする方から遠ざかるのでしょう。
これを「走性行動」と呼びますが、走性行動をとる生物は線虫に限りません。たとえば昆虫が灯りに向かって飛んでいくのも走性行動の一種で、「走光性」と呼びます。線虫のように匂い物質に寄って行く走性は「走化性」です。
匂いに対する嗜好性、すなわち線虫がその匂いをどの程度好きか嫌いかは、「走性インデックス」を測ることでわかります。下の図で説明しましょう。
まず、シャーレの中央に線虫を、片端に調べたい匂い物質を置きます。尿の場合は、尿を1滴垂らします。すると線虫が動き出し、好きな匂いの場合は中央から匂い物質寄り(Aエリア)に、嫌いな匂いの場合は反対方向(Bエリア)に移動します。一定時間後に、それぞれのエリアにいる線虫の数を数えます。
Aエリアにいる線虫の数からBエリアにいる線虫の数を引き、それを線虫の総数で割った割合が、走性インデックスです。
仮に線虫が全部で100匹、そのうちAエリアに移動したのが80匹、Bエリアに移動したのが20匹とします。すると走性インデックスは、(80-20) ÷ 100 = 0.6 です。
100匹全部がAエリアに移動すれば、走性インデックスは1。100匹全部がBエリアに移動すれば、走性インデックスはマイナス1。
50対50に分かれれば走性インデックスは0で、嗜好性なしです。
したがって、走性インデックスがプラスならば、線虫はその匂いが好き。マイナスならば嫌い。1またはマイナス1に近いほど、好きまたは嫌いの度合いが強いということです。
ちなみに、走性インデックスがマイナス1に近い、すなわち線虫が大嫌いな「ノナノン」は、牛乳を加熱したときに出る匂いや、ブルーチーズの匂いです。
「犬ががんの匂いを嗅ぎ分けられるなら、線虫も嗅ぎ分けられるに違いない」と思った私は、早速実験に取り掛かりました。線虫に匂いの嗜好性があることはわかっていましたから、まずは「がん細胞の分泌物」を使って、走性インデックスを測ってみたのです。
正確に言えば、シャーレでがん細胞を培養し、培養したがん細胞を取り除き、そのあとに残ったがん細胞の分泌物を含む培養液を使いました。シャーレの端にがん細胞分泌物を含む培養液を垂らし、真ん中に数十匹の線虫を置いて動きを観察したのです。
すると線虫は、がん細胞の分泌物に寄って行きました。
同時に行なった、正常細胞の分泌物を含む培養液に対する実験では、線虫は遠ざかりました。どうやら線虫は、がん細胞の分泌物が好きで、正常細胞の分泌物が嫌いなようです。
しかしこれだけでは、線虫が匂いに反応しているのかどうかはわかりません。線虫には味覚もあるからです。
そこで今度は、「odr-3」という遺伝子を壊した線虫「odr-3変異体」で、同様の実験をしました。
odr-3とは、匂いを感じてから嗅覚神経が活性化するまでのメインルート上で、最も重要な役割を果たす分子を作る遺伝子です。
こういうと小難しいのですが、要するにodr-3を破壊すると嗅覚に異常を生じます。そこでodr-3変異体を使ってがん細胞の分泌物に対する走性を見たのです。
その結果、線虫はまさに、がん細胞の分泌物の「匂いを感じている」ことがわかりました。
野生型(スタンダード)とodr-3変異体それぞれのシャーレに、同じがん細胞分泌物を含む培養液を垂らし、どう動くかを観察したところ、野生型は近寄り、odr-3変異体は遠ざかったのです。
嗅覚に異常がある線虫は行動が変わったわけで、このことから線虫が感じているのは匂いだとわかりました。
しかしこれだけでは、線虫が人由来の物質に反応するかどうかはわかりません。そこで今度は、同一人物のがん組織と正常組織に対する反応を調べることにしました。
結果は、がん組織には近寄り、正常組織からは遠ざかりました。
どうやら線虫は、人が嫌いでがんが好きなようです。人が自分たちの生存を脅かす存在であることを、知っているのかもしれません。それはともかく、線虫が人由来の物質も嗅ぎ分けることがわかったわけです。
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