gimahiromi
2019/06/28
gimahiromi
2019/06/28
「私には愛が足りない」と思ってしまう原因のもうひとつは、自分から発した愛と戻ってくるものとの間の絶対的な時間差です。
基本的に私たちは、「愛している人には愛されたい」と期待するものです。味気ない言い方をすれば、見返りです。それも「こんなにしてあげているのに」と、自分のしたことは過大に見積もるわりには、受け取ったものをあまり高く評価しないという傾向があります。
さらに悪いことに、とても短いサイクルでその見返りを考えています。
たとえば、カウンターで100円を出したら、ホットコーヒーが差し出される。そんなファストフード店でのやりとりのように、現代の私たちは即時的に返ってくるコミュニケーションの形態に慣れすぎているのです。
戻ってくる速さだけの問題ではありません。まるで100円とホットコーヒーを交換するように、恋愛でも親子関係でも、何かをしたらその対価がきっちりと返ってくるべき。それが一番フェアなことなのだと、どうやら世の中全般で信じられているところがあるのです。
それがよく言う「ギブアンドテイク」の正体です。
そうすると、愛の物語なのにもかかわらず、値段表を見て購入し、レシートをもらって毎日家計簿をつけているかのような状況です。
「今月はこんなに愛を使ったから、もうすっからかんなの。早く誰かに返済してもらいたい」とばかりに、ひたすら電卓を叩いて帳尻合わせをしようとする。
そうなってくると、もうその愛は、錬金術というおもしろさを失ってしまうのです。
そもそも、出会いの不思議さというのは、化学反応のようなものです。
めぐりあうことで、結果として特別な意味を持った化合物があらたに生まれるだけでなく、私とあなたのそれぞれも、今までとは違う色やかたちの何かに変わっていけることすらあるのです。
それこそが、愛の楽しみ。でもそれも、かけたコストに見合った結果が出るかどうかを日々帳簿につけて損益を見ているような状態では、これから起こる化学変化への期待やワクワクする感じというのもなくなってしまいます。
さらに「見返り」の話をすすめれば、家計簿であれギブアンドテイクであれ、このやりとりでもっとも致命的に愛の本質から遠いのは、すべての関係が二者関係として考えられているということです。
「貸す人(あげる・ギブ)」と「借りる人(もらう・テイク)」の立ち位置が入れ替わることはあっても、二者のあいだだけで成立しているために、社会に向かって広がりがありません。
しかし、愛が人間を豊かにするのは、社会と私との間に大きなつながりを作ってくれるからです。
「私とあなた」だけではなく、私の周りやあなたの周りにいる人とのつながり、あなたを生んでくれてあなたの歴史につながっている環境や人々とも、私はつながりを感じることができる。そして、世界そのものとつながっている喜びを感じることができる。それが愛の力なのです。
そうすると、私の投げかけた愛も、一度はもう戻ってこないかのように思えることもあるかもしれない。それが時間をめぐって、遠いつながりのある誰かやどこかにループして再び戻ってくるかもしれないというのも、愛の素晴らしいところです。
子どもへの愛などは、返ってくるのが本当に遅い。戻ってくることを期待してはいけないとも言えます。
ただし、その子の瞬間の笑顔がかわいくてたまらない、というようなことで即時的に戻っていると言える説もあります。
だから本来は、自分の投げかけたものがどれだけの期間で戻ってくるかなんて、予測すること自体がまったく小賢しいことかもしれないのです。
「コーヒーを買う」的な即時性のあるやりとりだけを望んでいたら、そこで関係がじっくり熟成し、まったく別の新しい何かになるような、時間も歴史も期待はできないでしょう。
だとすると、見返りを求めず「投げ出す」という気持ちを持ったほうが、本当に愛の楽しみを味わうにはむしろお得ということになるのです。
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