gimahiromi
2019/06/28
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2019/06/28
——小説をお書きになるきっかけは、何だったんですか?
桂歌蔵(以下、歌蔵) 小さい頃からものを書くのが好きだったんですよ。小学生の頃から、作文で地元の賞なんかをもらっていたので、ちょっと勘違いしてしまって。まだ落語家になる前、バンド活動をやっていた頃から音楽雑誌の一般投稿で、音楽もからめて面白おかしく書いたエッセイなんかが採用されてたんです。その後は、この世界に入って前座の頃にボクシングのプロライセンスを取得し、二ツ目に昇進後、ボクシング雑誌から取材が来たんです。その取材後に、今度は自分が取材して記事を書きたい、と思うようになりまして。で、空手雑誌の編集長に、「実は僕、こういう素性の者なんですが、何か書かせてくれませんか」と売り込んだら、変わったやつだな、と気に入ってもらえて、エッセイを書かせてもらえるようになったんです。それまでの自分は、お笑いと格闘技と音楽という三本柱を中心に生きていた人間なので、落語家になった後もロックミュージックはずっと聴いてたんです。そのおかげで、音楽雑誌にも書かせてもらうようになりました。
やがて「あなたの作品を出版社に売り込みます」というプロダクションの社長と知り合って、「歌丸師匠の内弟子だったんだから前座時代の体験談を書いてみたら」と言われて、二玄社というところから『前座修業』という本を出したんです。これが、小説の体(てい)をなしているのかいないのかわからない作品だったんですが、一応登場人物は全部仮名にしました。だいたい誰だかは、わかる人にはわかるんですが(笑)。
——最終的には小説が書きたかったんですか?
歌蔵 もちろん。小説はずっと書きたかったんですよ。『前座修業』は自分にとって初の作品だったので、一生懸命書いて出版させてもらえたのはありがたかったんですが、同時期に立川談春さんの『赤めだか』が出たんです。私の作品は全く売れなかったんですが(苦笑)、談春さんの本は十万部突破。それで負けじ魂に火がついて、「自分の方がもっと書ける」なんて思い込みだけで、次の年から小説の新人賞に応募するようになったんです。最初は書き方もわからなかったから、円形脱毛になるくらい悩みながらも、なんとか書き上げた。これがある新人賞で最終に残っちゃった。結果、賞は獲れなかったんですが、自信にはつながりました。それからは色々な出版社の賞に出すようになったんです。小説宝石新人賞にも二回くらい応募して、二次まで残してもらいました。で、二〇〇九年から二〇一六年までひたすら大手出版社の賞に年二、三本のペースで書いて出し続けました。それこそ大衆小説から純文系まで。どこかに引っかかろうとして、小説学校にも通わず、独学で書き続けてきたんですが、一七年に「現状では難しい」ということにやっと気づいて、まずは地方文学賞で試してみようと、方向転換をしました。そしたら赤羽萬次郎賞というエッセイ賞と、藤本義一文学賞という賞をいただきました。
あのタイミングで路線を変更したのは何でだろう、どうしてもっと早く気づかなかったのだろう、と今思い返したりするんですが、やっぱり師匠が生きているうちは賞を獲れなかったのかなあ、と思ったりします。どこか師匠の「圧」もあったし、それに対して自分もムキになっていたところがありまして、そういう運命だったのかな、と。実は最初の応募原稿が最終に残った時に、僕がそれを寄席の高座で言ったのを師匠が脇で聞いていたんですね。そしたら楽屋の隅に呼ばれて、「小説は書くのは苦しいけど、頑張って続けなさいよ」といってくれたんです。師匠も小説を読むのが好きだったけど、こちらもそんな優しい言葉をかけてくれるとは思わなかったので、きょとんとした記憶があります。その上、わざわざ次の日の朝、電話してきたんです。「あんたの作品、どこに載ってるんだい?」と訊かれて、「すみません。選評が載ってるだけです」と答えたんですが、自分でもそれが悔しくて。それから一七年までムキになっていたような気がします。
——「圧」とはどういうものなんですか?
歌蔵 うちの師匠は落語界の頂点にいるわけですから、いつでも弟子を殺せるんですよ、破門だと。たとえ真打ちに昇進していたとしてもね。出過ぎたことをすると干されるし。楽屋で「あいつは駄目だ」と言われると、まわりが、サーッと引く。そういうすごい圧力を持っている人でした。にもかかわらず、ずいぶん逆らうようなこともしてきましたけど(笑)、それでも、こちらもギリギリのところで気を遣っているわけです。そんな自分自身の葛藤というか、せめぎあいが変な邪念となって、上手くいかなかったんですかねえ。それがどうして心境が変化したのか、いま冷静に考えたら、やっぱり師匠の圧力が弱まったからかもしれない。師匠が頻繁に入退院をくり返すようになって。師匠に対する気持ち、期待に応えたいという気持ちと、一泡吹かせたいという気持ちが、すっと引いたのが二〇一七年頃だったのかもしれません。
二〇一八年の五月中旬、入院中の師匠の体調が悪化している頃、お見舞いに伺ったら酸素吸入マスクをずらして、ぼそっと「面白かった」といったんです。誉めてもらうことなんかまずないので、師匠もボクも好きな動物番組のことか、と思って、「面白かったですか」と答えたら変な顔をしたんですよ。しばらくして義理の息子さんから廊下に呼ばれて、「あれ、歌蔵さんの何かが面白かった、っていってるんだよ」と。その前に病室に第三回藤本義一文学賞特別賞の受賞作が掲載された本を持って行っていたんです。それを読んで誉めてくれたんだ、とやっと気づいて。もう三十分くらいたったあと、「師匠、どうもありがとうございました」とお礼を言ったらますます変な顔をされて。最後の最後まで、ずれたままの歪(いびつ)な師弟関係だったなあと。
——でも、この『廓に噺せば』をお読みになったら喜ばれたと思いますよ。
歌蔵 拙(つたな)いところは別にして、自分でもこの作品が師匠孝行になればな、と。けど、もう読んでもらうことができない。さっきの話じゃないですが、不器用な師匠と弟子の結実がこれなのかなあ、と思います。
——師匠の幼少期をお書きになろう、というのはいつ頃から?
歌蔵 『前座修業』を書いた後なんですが、NHKの四十五分の番組で「わたしが子どもだったころ」という、有名人の子供だった頃を再現するドラマで、師匠の回があったんです。再現していたのが第四章に登場する、バラック小屋で、サンマが焼けたのを師匠とおばあさんと、一人だけの女郎さんが母親みたいな感じで三人で食卓で囲っていた場面。女郎さんに「ぼく、落語できるよ」と少年時代の師匠がいうと、彼女が「ぼっちゃん、やってみな」というやりとりがあって、落語をやるシーンになる。そのエピソードが、師匠のどの自叙伝にも載っていないんです。この三人の共同生活の場面が、あまりにも強烈だったので、これは小説になるな、というのがずっと頭の中の片隅にありました。で、決定的になったのがやはりNHKの「ファミリーヒストリー」での師匠の祖母の物語。これが書きたい、というので光文社さんとお話しさせていただいた時に、最初はおばあちゃんの視点で書こうと思っていたんです。ただ自分にはそれは荷が重い、と思い直して、少年目線に変えさせてもらって執筆を開始したのが二〇一八年の一月ですね。で、もちろん師匠の許可をいただかなければいけない。一月下旬に、その時も師匠は入院中でしたので、病室を訪れたら、他に見舞い客は誰もいなくて、師匠ひとりだったんです。「実は師匠、『ファミリーヒストリー』でやっていたことを書きたいんですが」といったら、師匠がちらっとこちらを一瞥(いちべつ)した後、ずーっと窓の外を見たまま「いいよ」っていったんです。その後に「おれが小さかった頃な、横浜港の三菱化学工場で大爆発があったんだよ。あれは一体何だったんだろうな」ってつぶやいて。で、「わかりました。それを小説に書きます」という話をしました。その足ですぐに野毛の図書館に行き、そのあとも開港資料館に行ったり、その後も横浜に行くたびに調べていきました。
——歌丸さんの子供の頃のエピソードなどは、どのようにして取材されたんですか?
歌蔵 師匠にお仕えしたのが、二十六年と七ヶ月になります。二ツ目の頃、地方に同行させてもらってたんです。旅の最中に師匠が直接話してくれたこと、また前座時代、師匠の講演の鞄持ちで付いて行ってた頃、講演内容は、生い立ちとかおばあちゃんとの話、五代目古今亭今輔師匠のところに弟子入りしたときのエピソードを、話してらしたんです。それらが自分の中に残っていたんです。
——主人公・壽雄(ひさお)のキャラクターも、そういうお話の中から生まれたんですか?
歌蔵 いや、もしかして主人公は、自分自身に近いかもしれませんね。自分にも祖母がいましたから、それと重ね合わせたところがあります。おばあちゃんの廓の「永代楼」の名前は、子供の頃に住んでいた堺市の永代町からとっているんです。
若い頃に吉川英治の『宮本武蔵』を夢中になって読んだんですが、あれはほとんど架空で、史実はある程度ふまえてあるけれど、「お通さん」なんか実際はいませんしね。それを知ったときはすごくショックだったんですけど、そんな書き方もありなのか、実在の人物をモデルにしても架空の「お通さん」が登場してもいいんだ、と思った。今回の作品を書くとき、それは頭にありました。実在の人物をモデルにしても、そこに架空の人物を出してもいい、ということが。
——お書きになっていて、いちばんご苦労されたところは?
歌蔵 小説宝石に掲載させていただくときに、一話一話を、それだけ読んでも成立するように、オチをつけてほしい、それに一話ごとに落語についても入れてほしい、といわれたんです。要するに三題噺みたいにお題をもらって、それにどうオチをつけるか、ということを勉強させてもらいました。
——KADOKAWAで出された『よたんぼう』は書きたいことを書かせてもらった、とおっしゃっていましたが、それとは全然違う?
歌蔵 全然違いましたね。ただ、『よたんぼう』と『廓に噺せば』はそういう意味では相反しているけれど、同じ時期に書いたので、自分の中ではちょっと繋がっているところもあります。それに一長一短で、『よたんぼう』は自由に書いたので、書きやすかったところもあるけれど、仕上げまで持って行くのに、とても苦しいところがあったし、『廓に噺せば』は苦しいけど、書いているときは、やっぱりこれだよなという手応えもあった。ただ、切り替えが難しかったです。同時進行は大変でした。連載を何本も並行して書いているプロの先生方は、本当にすごいと思います。
——原稿はどういうときに書いていらしたんですか?
歌蔵 寄席の合間とか、夜のファミレスとか。今はお酒をやめているんですが、深夜のファミレスに行く前って、かつてお酒を飲んでいた頃、行きつけのバーに行く前の高揚感に近い気持ちがありました。バーの常連客に会えるかな、というのに似た気持ちで、小説を書くことで、登場人物と再会できる楽しみを感じながら書き進めました。
——お話を伺っていると、落語と小説、両方とも作中の人物に入り込んで、物語を人に伝えるという表現方法だと思いますが、似てるところ、あるいは違うところは?
歌蔵 まず作法が違いますよね。書き心と、しゃべり心は根本的に違うような気がするんです。根本的なところでは、落語はほとんど会話形式なのでシナリオなんです。情景描写は落語家自身の肉体を駆使し、仕草や表情で、雰囲気を作っていく。でも小説ではそれはできませんから。文章での説明をどこにどうさりげなく入れるか、どこまで説明するかなどすべて作家さんのセンスですよね。そういう意味では違います。
この九年間、ひたすら賞に応募するために小説を書いていて、落語から乖離(かいり)しないようには念じてました。このままじゃ、落語から小説の方に行って戻れなくなってしまう。でもそれもありかな、という気持ちもあって、それをかみさんに怒られたこともありました。「お金になんないじゃないの。もっと営業をしないと食べていけないでしょ」と。でもその営業の時間を割いてでも、執筆を続けてきたので、そういう意味では、他の落語家とは違う生き方をしてきましたね。
——小説をお書きになるときに、落語をやっていて役に立ったことはありますか?
歌蔵 気持ちの表現ですかね。落語の中に、ほろっとさせるところとか泣かせどころがあるんですよ。そこは、たぶん小説にも活かされたかな、と。四十代の頃は「らくだ」とか「黄金餅」とかハードボイルドな噺(はなし)が好きで演(や)っていたんですけど、小説で人の機微を描こうとするようになってからは、高座でも人情噺を演るようになりました。年齢的なこともあるかもしれません。
——この作品は廓の話なのに、偏見がなくて素直にそこで生きている人々の姿が伝わってくる、そこがこういう世界を描いた作品としては珍しいと思いますし、作品の魅力のひとつでもある。そういう部分は執筆中に意識していたんですか?
歌蔵 自分自身も弱者、報われないマイノリティだ、という意識があるんです。だからこそ、そちら側に立つ人の気持ちを書きたい、というのがすごく強いんです。生い立ちがどうのこうの、とかそれに伴う思想が、というんじゃなくて、語弊があるかもしれないけれど、弱い人、恵まれない人に興味があるんです。世界中を回って、いろいろな国でそういう人たちを見続けてきたんですが、大概の人が報われなかったりするんです。そういう人たちの物語を書きたいんです。報われない中にも人の情、またそれぞれの幸せがあるというか。
——作品中でも、最後は幸せになっていない女性でも、壽雄と一緒にいる間の刹那の幸せがあったりしますね。女郎さんたちも普通の人として描いている。
歌蔵 今まで生きてきた人生と、日本全国、世界のいろいろな国を落語家として回ってきて身についた感覚から生まれたものであり、書いていきたいテーマですね。
——この作品では、最後の最後まで嫌な人間は登場しませんね。
歌蔵 悪いこと、嫌なことって書きたくないんですよ。それは小説としてよくないな、という気持ちもある。『よたんぼう』でもそうだったんですが、嫌な人が書けないんじゃないかという危惧もあります。
——この作品はむしろそれがよいところだと思います。最後にこれからお書きになりたいものは?
歌蔵 人情噺とか、読者の読後感がいいものを書いていきたいと思います。今回みたいにノスタルジックなちょっと前の時代を舞台にしたり、江戸時代だったりしても書けるんじゃないかな、と思いますが、まずはこの作品を読者に受け入れてもらえないといけませんね。できるだけ多くの方に読んでいただきたい、そう願ってます。
『廓に噺せば』
桂歌蔵/著
昭和十六年の横浜。五歳の少年・檜垣壽雄は、色街・真金町の廓「永代楼」を切り盛りする祖母いねに可愛がられ、何不自由なく暮らしていた。しかし、母のきくが突然家出し、その寂しさから、壽雄は落語に、笑いに目覚めていく──。
桂歌蔵(かつら・うたぞう)
1964年大阪府生まれ。1992年2月、桂歌丸に入門、2005年5月、真打ちに昇進。’17年に赤羽萬次郎賞優秀賞、同年に第三回藤本義一文学賞特別賞を受賞。著書に『前座修業─千の小言もなんのその』などがあり、本年3月に初の長編小説『よたんぼう』を上梓した。
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