アベノミクスを援護射撃「年金の投資先」を株へ変えた男
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霞が関の「最強官庁」といえば財務省というのが、長い間の定評だった。国の財布を握ることで、他省庁ににらみを利かし、旧大蔵省時代から近年に至るまで、どの政権も一目を置く存在だった。

 

その構造に決定的な変化をもたらしたのが、2012年に発足した第2次安倍内閣だ。「官邸主導」の政治スタイルを完全に定着させ、役所の人事権も手中にした。財務省といえども特別視はせず、どちらかと言えば敵対的ですらある。

 

安倍内閣は財政規律よりもまずは経済成長を優先する姿勢を鮮明に打ち出し、財務省が悲願としていた消費税率の10%への引き上げも延期した。「我々が動くほど逆効果だ」──。財務省はすっかり自信を失った。

 

代わりに存在感を高めているのが、財務省の「弟分」とも呼ぶべき存在の金融庁だ。金融庁は財務省の前身である旧大蔵省を母体としている。

 

金融庁が設立されたのは、金融危機の余韻が冷めない2000年のことだ。政府や世論が期待した最大の役割は不良債権問題の解決であり、金融庁自身もそう考えてきた。このため、2000年代半ばを過ぎ、金融機関の経営が安定を取り戻すと、注目を浴びることは少なくなっていた。

 

その金融庁が存在感を高めているのは、森信親長官2015年に就任してからだ。森氏は金融庁の目標として「経済成長への貢献」を鮮明に掲げ、積極的に動き始めている。

 

森氏は東大を卒業後、1980年に旧大蔵省にいわゆるキャリア官僚として入った。同期入省は23人で、うち19人が東大卒だ。東大卒のうち12人は法学部出身だが、森氏は同期でただ一人、教養学部出身だ。

 

森氏は2006年、監督局総務課長として初めて金融庁で働き始めた。そこで目にしたのは、米国で目にしたのとはまるで異なる日本の金融機関の姿だった。不良債権問題は峠を過ぎていたが、不適切な金融商品の乱売や、保険金の不払いなどを繰り返していた。

 

しびれを切らした金融庁は行政処分を次々と出したが、金融機関は萎縮し、顧客のことよりも金融庁のことばかりを気にするようになっていた。

 

金融庁がルール違反を戒めるだけではだめだ。金融機関が自主的に経営改善に取り組むよう、根底にある姿勢を変えない限り金融機関は顧客からそっぽを向かれ続ける。森氏は庁内で、細かなルールで縛る従来の手法を抜本的に見直すよう訴え、頭角を現し始めた。

 

霞が関や永田町にその名が広まったのは、世界最大級の機関投資家であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用改革だ。GPIFは厚生労働省の主管だったが、日頃から「国益が一番大事だ」と語る森氏にとっては、省庁の壁は関係ない。その改革に1人で斬り込み始めた。

 

厚労省は伝統的に、日本国債を中心にした資産で安定した運用を心がけるべきだとする立場だった。

 

一方、森氏は「確かに、日本国債よりも、国内外の株式や海外債券はリスクが高いかもしれない。しかし、最も恐ろしいのは、運用が日本国債に集中するリスクではないか」と反論した。森氏は米国のヘッジファンドとも交流を持ち、投資に詳しい。厚労省の主張は歯がゆく映った。

 

森氏の主張は自民党金融調査会長だった塩崎恭久厚労相の目に留まり、2014年、それに沿った形でGPIFの運用改革が実現する。年金資産を増やすために国内株に投資するなど一定のリスクを取って運用する内容で、株価は大きく上昇した。

 

このことは、安倍内閣に対する援護射撃となった。安倍首相は14年11月、財務省の反対を押し切り、消費税率10%への引き上げ延期を決めたことの信を問うとして、解散総選挙に踏み切り、大勝した。

 

安倍首相が選挙戦でアベノミクスとして強調したのが、堅調な株式相場だ。株高は日本銀行が大規模な金融緩和を続けていたからでもあるが、首相官邸内で森・金融庁に対する評価が高まるのは当然の流れだった。

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