akane
2018/08/15
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2018/08/15
ジェームズ・コミー著『より高き忠誠 A HIGHER LOYALTY』より
2013年の夏の初め、私は二度と来ることはないと思っていた場所にいた。
晴天だった。ボブ・モラーの後任として私をFBI長官に指名したことを、バラク・オバマ大統領がローズガーデンで発表するその日、大統領、モラー、そして私は、ほかに誰もいないオーバルオフィスに立ち、ガラス戸の向こうの庭園へと歩み出すタイミングを待っていた。ホワイトハウスの記者たちはすでに集まっている。
いざカメラの前に進み出ると、大統領は立ち止まった。真剣な表情を浮かべた大統領は私のほうを向いて言った。「ジム、きみにひとつ言い忘れていたことがある」
大統領は私の表情に困惑の色が浮かんでいるのを読み取ると、モラーに向かってうなずいた。「ずいぶん前のことになるが、ボブは私に約束してくれたんだ。きみにもその約束を守ってもらわなければならない」と大統領は言う。いったいなんのことだろう?大統領は私の立場が独立したものであることをすでに請け合ってくれている。この段になって、私はなんらかの密約を求められているのだろうか?
大統領は事の重大さを強調するように一拍置いてから先を続けた。「ボブはいつも、FBIのジムで私がバスケットボールをするのを許可してくれた。引き続き許可すると、きみも約束してほしい」
私は笑った。「もちろんです、大統領。ある意味では、あなたのジムなのですから」
私はバスケットボールが大好きだ。けれども、FBIのジムで大統領と一緒にプレーすることにはけっしてならないとわかっていた。私はゴルフも好きだが、大統領と私がともにラウンドすることがないのも知っていた。FBI長官は大統領とそういう間柄になることはできない。誰もがその理由を知っている。少なくとも私はそう思っていた。
ブッシュ政権時代の2005年8月に司法省を離れたあと、私は民間に職を得た。5人の子どもたちはおよそ2年おきに続々と大学入学を迎えることになるが、政府に奉職した15年間の給与ではとても足りない。貯金をしなければならない時期がきていたのだ。私は軍需企業のロッキード・マーティン社の主任弁護士(つまり法務部長)として5年働き、その後はコネチカットにある投資会社、ブリッジウォーター・アソシエイツで3年働いた。そして2013年の初めに退職し、国家安全保障を専門とするフェローとして、コロンビア大学法科大学院の教員に加わった。私は常々、人に何かを教えることはやりがいのある仕事だと考えていた。
その年の3月、前触れもなく司法長官のエリック・ホルダーが私に電話をかけてきた。FBI長官になるために面接を受ける気はないかというのだ。ホルダーは、私が必ず長官になれると保証はしなかったが、もし私が有力候補でないなら自分から直接電話したりはしないと言った。
その電話には驚いた。それはおそらく、ワシントンDCにおける党派性をさんざん目の当たりにしてきたせいだ。民主党の大統領が、共和党の前任者によって政治任用された人間をそんな重要なポストに選ぶとはとうてい思えなかった。それに、オバマ大統領の政敵の献金者リストには、私の名前も記録されているはずだった。
私は気乗りしない態度をとった。ホルダーの提案を受諾すれば、私の家族にとっては酷なことになるはずだ。そのときホルダーに具体的な理由は伝えなかったが、当時、妻のパトリスは大学院に在籍しながら、コネチカット州ブリッジポートのメンタルヘルスクリニックでカウンセラーとして働いていたし、子どものひとりは高校の最上級生になっていた。それに、私たちは里親でもあり、わが家で暮らす若者たちを家から放り出すわけにもいかない。彼らに対する責任もある。ホルダーは申し出を検討してほしいと言った。私は、ひと晩考えてみると伝えたが、答えはおそらく「ノー」だった。
翌朝、目が覚めると、寝室にパトリスの姿がなかった。階下に降りると、彼女はキッチンでノートパソコンに向かっていた。ワシントンDCで売りに出ている家をインターネットで見ていたのだ。
「何してるんだい?」と、私は訊ねた。
「私は19歳のときからあなたを知っているの。あなたはこういう人だし、これこそあなたのしたいことでしょ。さあ、向こうに行ってベストを尽くして」そしてひと呼吸おいてから、こうつけ加えた。「もっとも、彼らがあなたを選ぶことはないでしょうけどね」妻はオバマ大統領が好きだったし、彼に投票もしていたが、それでもこの件については記念受験ぐらいに考えていた。のちに告白したところでは、彼女はただ、私がありえたかもしれない過去を口にしながら悲しい顔で歩きまわるのを何年間も見る羽目になったらたまらないと思ったらしい。妻にしても、オバマ大統領がブッシュ政権で働いた人間を選ぶとは思っていなかったのだ。
ホワイトハウスのスタッフとの予備面接を終え、私はオバマ大統領とオーバルオフィスで対面した。彼は、ブッシュ大統領の定位置だった場所、つまり暖炉を背にして柱時計の真横にあるアームチェアに身を沈めていた。私はその左手にあるソファの、大統領に最も近いクッションに腰を落ち着けた。そこに大統領の法律顧問であるキャシー・レムラーが加わり、私の向かいに腰を下ろした。
オバマ大統領とは初対面だったが、会ってみるとふたつのことに心を打たれた。本物はとんでもなくスリムだということ。そしてその集中力である。レムラーと私がオーバルオフィスのすぐ外で面談が始まるのを待っていたとき、大統領が自分のデスクで電話を手にして立っているのが目に入った。レムラーによると、歴史的な竜巻災害についてオクラホマ知事と話しているということだった。その竜巻はオクラホマ州を引き裂き、死者24人と数百人の負傷者を出した。オバマは電話を切ると、手招きして私を部屋へ通し、オクラホマの惨劇について手短に話したかと思うと、話題を180度転換してFBIの話を始めた。
大統領はほとんど沈痛ともいえる調子で、FBI長官の人選をなぜこれほど重く見ているかを説明した。「ある意味で、FBI長官と最高裁判事は大統領が取り組まなければならない最も重要な人事なんだ。未来のために選んでいるわけだからね」と彼は言った。「私がここを去ったあとも、きみは残ることになる」FBI長官の任期がこれほど長いことには大きな意味があるし、もし私が長官になったら、次の大統領にも手を貸してほしい、と彼は述べた。オバマはかつて大統領になりたての頃、軍のリーダーたちの圧力の下で、未経験ながら軍事的決定を下さなければならなかったときのプレッシャーを語った。必要なときに経験豊富な顧問を周囲に配置していなかったことを後悔しているのは言わずもがなだった。未来の、そしておそらくは彼と同様に経験のないリーダーの傍らに私がいて、国家安全保障にかかわる決定をよい方向に導くことをオバマ大統領は望んでいた。
私たちはまた、機密漏洩を捜査する必要性と、出版・報道の自由を支持する必要性とのあいだには、おのずと緊張関係が生じることについて話し合った。漏洩事件を捜査する司法省の直近の取り組みは、当時大きなニュースになっていて、メディアは「オバマ政権による締め付け」として大統領を責め立てていたのだ。私たちは個々の事例については話さなかったが、思慮深いリーダーであれば両者のバランスをとることができるという大統領の考えには同意できた。捜査官が記者にリーク元の情報を求めることを禁じるといっても、それは絵に描いた餅にすぎない。逆にリーク元を突き止めたりすれば報道の自由は崩壊するなどと言うのも、事を大げさに騒ぎ立てているだけだ。報道の自由と機密情報を同時に守ることは不可能ではないだろう。
私が最も驚いたのは、大統領がFBIの仕事について自分の意見を口にしたときだ。ここに来ることは無駄足になるというパトリスの見立てが見当違いに終わるだろうと気がついたのもこのときだった。大統領はFBI長官という仕事について、私にとっても、大方の党派的な人間にとってもまったく予想外の考えを持っていたのだ。大統領はこう述べた。「私は政策についてFBIからの助けは必要としていない。私が求めているのは能力と独立だ。私はFBIがしっかりとマネジメントされ、アメリカ国民が守られていることを知りつつ、毎夜眠りにつきたいと思っている」予想に反し、私が大統領と異なる政治信条を持っていたことが、むしろ私に都合よく働いたというわけだ。
同感です、と私は答えた。FBIは独立した存在であるべきだし、政治からは切り離されているべきだ。そのためにこそ、長官の任期は10年に設定されている。
オバマ大統領との面談を終え、私はパトリスに電話して偉そうなことを言ってしまった。「きみは政府の連中にはまともな判断力などないと思っていたみたいだけど、どうやら間違っていたようだ」オバマと話して爽快な気分を味わった私は、FBI長官のポストを正式にオファーされると、任命に同意した。家族は2年間コネチカットに留まり、いま携わっていることを片づけることになるが、私はすでにFBI長官として2023年まで任期をまっとうする気満々だった。行く手を阻むものなどどこにもないと、そのときは思っていた。
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