akane
2018/08/10
akane
2018/08/10
ジェームズ・コミー著『より高き忠誠 A HIGHER LOYALTY』より
指導者の倫理を語ろうなんて、私はいったい何様なのか?指導者の倫理について本を書こうとする者は誰しも、聖人ぶり思い上がった人間だと見なされかねない。おおっぴらに前職を解任されたことが人々の記憶にしっかり残っている人間であれば、なおさらだ。
個人の体験を綴った本など、たいていは虚栄心の産物だろうと考えたくなる気持ちは私にも理解できる。だからこそ、私は自分の本を書くという考えを長年退けてきた。しかし、ある重大な理由からその考えを改めた。われわれの国家はいま危険な時期を迎えている。政治の世界では基本的な事実が議論の的になり、根源的な真理に疑問が投げかけられ、虚偽が当たり前のようにはびこり、倫理にもとる行為は見過ごされ、容認され、報われることすらある。これは、ワシントンやアメリカ国内に限った話ではない。この憂うべき潮流は、アメリカはもとより世界中の組織を脅かしている─大企業の会議室、メディアの編集室、大学のキャンパス、エンターテインメント業界、プロスポーツ、オリンピックといった現場で。詐欺やペテンを働き、他人に害をなしたことで罰を受ける者がいる一方で、言い訳や正当化で身を固め、悪行から頑として目を背けるばかりか、容認さえする周囲の人たちのおかげで生き延びている者もいる。
したがって、指導者の倫理について検証することが役に立つ時期があるとすれば、それはまさにいまなのである。私は専門家ではないが、大学生の頃からリーダーシップについて学び、本を読み、倫理的な指導者とは何かを考えてきた。なんとかして自らそれを実践しようと、何十年にもわたって悪戦苦闘してきた。正解を教えてくれる完璧な指導者など存在しない以上、われわれは自らの手で議論を喚起し、自分自身も指導者たちも高い倫理的水準を求めるよう促していかなければならない。
倫理的な指導者は、批判から、とりわけ自己批判から逃げることはない。自分に都合の悪い質問から身を隠すこともない。むしろ、それを歓迎するものだ。どんな人間にも欠点はあるし、私自身も多くの欠点を抱えている。本書を読み進めればわかることだが、私は頑固で、横柄で、自信過剰で、エゴに突き動かされるタイプの人間だ。私はこうした欠点を克服しようと、これまでずっと自らと闘ってきた。人生を振り返れば、あのとき違った行動を取っていればよかったのにと思うことは山ほどある。いまだに恥ずかしくてたまらなくなる思い出もいくつもある。誰にだってそうした経験はあるだろう。重要なのは、そうした経験から学び、できればもっとましな行動を取るようにすることだ。
私だって批判されるのが大好きというわけではないが、自分が正しいと確信しているときですら間違いをおかすことがあるのは知っている。意見を異にする人々や、私を批判する人々の声に耳を傾けるのは、自分の思い込みに気づくうえでは欠かせない。私はこれまで、疑うことはひとつの知恵であると学んできた。年齢を重ねるごとに、確信を持って言えることは減っていく。自分が間違っているとは考えたこともない指導者、自分の判断や視点を疑わない指導者は、組織にとってもそこに属する人々にとっても危険な存在だ。場合によっては、国家や世界に害をなすことさえある。
倫理的な指導者は、目先のことや緊急事態の先を見通して人々の先頭に立ち、どんな場合も不変の価値に基づいて行動するべきであると私は学んできた。彼らは宗教上の伝統や道徳的世界観、歴史の評価に価値を見いだす。不変の価値(たとえば、真実、高潔さ、他者への敬意など)は、倫理的な指導者が意思決定をするとき、とりわけ手っ取り早い選択肢や妥当な選択肢のない難しい判断を迫られたときの指標となる。それは社会通念や同族思考よりも、上層部の気まぐれや部下の意気込みよりも、そして組織の採算性や収益よりも重要なものである。倫理的な指導者は自らの利益以上に、こうした基本的価値のほうにより高い忠誠を誓っている。
倫理的なリーダーシップとは、人間について、そして物事に意味を求めずにはいられない人間の本質について理解することでもある。それは、倫理的水準が高く、不安の少ない職場をつくり上げることでもあるだろう。こうした文化にあってこそ、人々は安心して真実を告げることができ、自分自身にも周囲の人間にも倫理的に高い水準を求めるようになる。
真実を語る原則がない場所では、進むべき道を見失う。このことは、とりわけ公的機関とその指導者について当てはまるだろう。法の原理として、人々が真実を語らなくなれば、司法制度は機能しなくなり、法をよりどころとする社会は崩壊を始める。リーダーシップの原理として、指導者が真実を語らず、他人の言葉に耳を貸さなければ、適切な判断は下せない。自ら成長することも、あとに続く者の信頼を呼び起こすこともできなくなる。
幸いなことに、高潔さと真実を語ることについては、率直で透明性の高い開かれた文化をつくっていくことで力強い模範を示すことができる。指導者というのは注目される立場だ。だから、倫理的な指導者は、その言葉と(さらに重要な)行動によって倫理的な文化を形づくることができる。だが、残念ながら逆もまた真となりうる。不正直な指導者も、不誠実さや腐敗、欺瞞を世間に見せることで、そのような文化を形づくることができてしまうのだ。品位を重んじ、真実に忠実であるかどうかが、倫理的な指導者と、たまたま指導者の座に就くことになった人間の違いになる。その違いを見逃してはならない。
本書のタイトルを考えるのに私は長い時間をかけた。このタイトルは、ある晩ホワイトハウスで開かれた奇っ怪な夕食会に着想を得たものだ。その場で、新任のアメリカ大統領は、私に彼自身への忠誠を求めた─FBI長官としてアメリカ国民に捧げるものよりも高い忠誠を。もうひとつ、もっと深い意味で、このタイトルは私が法に捧げた40年間を総括したものでもある。連邦検事として、企業法務に携わる弁護士として、3代にわたるアメリカ大統領の側で働く者として、私は法に仕えてきた。こうしたすべての職務で、人生には「より高き忠誠」を捧げるべき存在があることを私は周囲の人々から学び、ともに働く人々にそのことを伝えてきた。忠誠を捧げるべきは、個人でも、党でも、いかなる集団でもなく、不変の価値─とりわけ真実にほかならない。本書が、われわれを支える価値について考えるきっかけとなり、それらの価値を体現するリーダーシップを探究するのに役立つことを願ってやまない。
株式会社光文社Copyright (C) Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.