akane
2018/08/08
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2018/08/08
西洋の哲学者や知識人は、食欲や味覚については学問的に追究する価値のないものととらえる傾向にありました。例えば、18世紀のドイツ(プロイセン)の思想家であるカントは、味覚と嗅覚は客観的なものではないので、追究する意味がないと述べたことで知られています。他の感覚と比べると、味やにおいの感じ方は個人によってかなり違うため、とらえようがなかったのかもしれません。あるいは、食欲は欲望の一種であることから、「卑しいもの」と考えていたと推測できます。
しかし、19世紀の後半になると、自然科学の進歩とともに医学や生物学が大きく発展し、食欲が生じる仕組みについても解析が進み出すようになります。そして、事故や腫瘍などによって脳の一部を損傷した人の症状を調べたり、実験動物の脳の一部を破壊した時の食べる行動(摂食行動)を調べたりすることで、食欲が生じるのに「視床下部」と呼ばれる領域が重要であることが次第に分かってきました。
視床下部は、脳のほぼ真ん中あたりにあり、親指の先くらいの大きさをしています。
そして現在では、視床下部は摂食行動だけでなく、体温や血圧、心拍数の調節、ホルモンの分泌、飲水行動、睡眠、性行動、体内時計をつかさどることで、動物が生存を続けるために体内の環境を一定に保つ役割を果たしていることが分かっています。
さて、私たち人間は、お腹が空く生き物です。朝食に昼食、夜食に間食……。おやつにお酒……。ついつい、食べ過ぎ・飲み過ぎてしまうのが常です。しかし、食べ過ぎると、当然、脂肪が増えるので肥満することになります。
脂肪細胞から分泌されるホルモンに、「レプチン」と呼ばれるものがあります。これは、食欲を抑制し、エネルギー代謝を活性化させる機能を持っています。レプチンは、脂肪が増えるにしたがって放出量が増えます。したがって、レプチンは適正な体重の維持に働いていると考えられています。しかし、肥満状態の人の摂食は、必ずしも抑制されていないのが現状です。
どうしてでしょうか。
それは、レプチンが効きにくくなる、「レプチン抵抗性」と呼ばれる現象が起こるためです。そのメカニズムはよく分かっておらず、また、治療法も見つかっていません。
しかし、『一度太るとなぜ痩せにくい?』(光文社新書)を上梓した基礎生物学研究所の新谷隆史准教授のグループは、PTPRJという酵素分子がレプチンの受容体の活性化を抑制していることを発見しました。肥満にともなって摂食中枢でPTPRJの発現が増えることによってレプチンが効きにくくなり、これが、レプチン抵抗性の要因となっていることを明らかにしたのです。その研究成果はScientific Reportsにオンライン掲載され、世界で大きな反響を呼びました。この研究成果をベースにまとめたのが前述の一冊です。
現在、世界中でレプチン抵抗性の研究が進められているようですが、新谷准教授によると、レプチンの発見者は数年以内にノーベル生理学・医学賞を受賞するかもしれないと語っています。
レプチンはまた、脳の視床下部に働いて、性ホルモンの分泌を促進することによって、性成熟や生殖活動に重要な役割を果たしていることが明らかになっています。
以前から、第二次性徴(思春期)が始まるには脂肪の蓄積が必要であるといわれていました。しかし現在では、蓄積された体脂肪から放出されるレプチンが視床下部を刺激することで性ホルモンの分泌が高まり、第二次性徴が始まると考えられているそうです。
第二次大戦後、日本人の栄養状態は年々向上し、子供の体格も格段に向上しました。それにともなって初潮の年齢も徐々に低くなりましたが、これには体脂肪率の増加、すなわちレプチンの増加が関係していると考えられているのです。
一方、食べ物の不足などにより脂肪量が少ない状態の場合、妊娠しにくくなることが知られています。そして、これにもレプチンが関与していると考えられています。すなわち、体脂肪量が少なくレプチンが足りないと、女性ホルモンの分泌量が下がるため排卵が起こりにくくなるというわけです。
例えば、女性アスリートが過度な減量を行うと、月経異常を起こすことがあります。また、最近若い女性に増えている拒食症(神経性無食欲症)でも、無月経が問題になっています。これらの原因は、体脂肪量の低下によるレプチンの減少であると考えられています。
レプチンが十分にないと性成熟が起こらなかったり生殖機能が低下したりするのは、動物固体の生存と種族の維持を両立させるという意味で理にかなった仕組みと考えられます。すなわち、低栄養状態のやせた動物が妊娠すると、親子が共倒れになってしまう危険性があるからです。冬ごもりの時期に体脂肪率が上がらないとメスグマが流産してしまう現象にも、レプチンが関わっていると推察されています。
このように、視床下部は、脂肪細胞から放出されるレプチンを、「栄養シグナル」として利用することで、摂食行動とともに生殖行動も制御しているのです。
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