akane
2018/07/16
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2018/07/16
ヒラリー・ロダム・クリントン著『WHAT HAPPENED 何が起きたのか?』より
二〇一六年一一月八日の夜は、孫娘を追いかけて、どうしてもぎりぎりで捕まえられないふりをすることから始まった。シャーロットがはしゃいで、「もう一度!」と叫び、同じことを繰り返す。これがしばらく続いた。それで、テレビから気持ちを逸らしておけた。
家族と主要なスタッフは、ニューヨークのペニンシュラ・ホテルに集まって、開票結果報告を見ていた。わたしは選挙の夜が嫌いだ。もう何もできず、待っているしかない。
何時間か前、夜明け前の暗闇の中、わたしたちはピッツバーグからミシガン州グランド・ラピッズへの最後の選挙運動の旅を終え、フィラデルフィアでオバマとブルース・スプリングスティーンと共に大規模な大会に出た。それからノースカロライナ州ローリーでまた別の大会に出て、そこではジョン・ボン・ジョヴィとレディー・ガガの深夜のデュエットが披露された。ようやくニューヨーク郊外のウェストチェスターに戻ると、午前四時近いというのに、たくさんの支持者が舗道で出迎えてくれた。
わたしは疲れ果てていたが幸せで、チームが誇らしかった。フィラデルフィアのインディペンデンス・ホールでビル、チェルシー、バラクとミシェルと共に、何万人もの人々の前に立ったときが、選挙運動全体を通してピークの一つだった。大統領はわたしをハグし、囁いた。「よくやった。誇りに思うよ」
自宅に帰ってシャワーを浴びて着替えをし、ビルと共にチャパクアの小学校で投票をした。わたしが投票しようとしているのを見て、人々は携帯電話を取り出して友人に電子メールを送ったり、こっそり写真を写したりした。わたしはボランティアのスタッフがいるテーブルに行き、有権者の名簿にサインをした。本当にわたしであることを証明するものが必要かどうかと、冗談を言った(わたしは写真付きの身分証明書を求められることはなかったが、多くの国民はこれを見せなければならず、その日、あまりにも多くの国民が追い返された)。
選挙運動は小さな苛立ちや大きな怒りの連続だったが、最終的に、我が民主制が動き始めるのを見るのは心が高ぶるものだ。あらゆる議論をし、大会を終え、テレビの宣伝が放映されて、一般の人々が列をなして意思表示をする。ウィンストン・チャーチルの、「民主制は最悪の政府の形態だ─他の全てを除いたら」という名言が大好きだ。現状はめちゃくちゃであっても、わたしはまだそれを信じている(選挙人団、あなたたちのことよ!)。
候補者名簿に自分の名前があるのを見るのは、特別なことだ。二〇ヵ月のあいだ、一二回の討論会、そして数えきれないほどのスピーチや集会を経て、ついにここにたどりついた。全国で一億三六〇〇万人がわたしとドナルド・トランプの名前を見て、この国、そして世界の将来を形作る決定をする。
候補者名簿にマークをつける前に、女性が歩み寄ってきて、一緒に自撮りしていいかと訊いてきた(自撮りを求める気持ちには境界線がない─投票場という聖域でさえ、禁止地域ではないのだ!)。わたしは自分の名前と下流(連邦議員など)の候補者の横の空所を埋め、それをスキャナーに滑りこませ、見えなくなるのを見守った。
心の中にはプライドと謙虚な気持ち、そして緊張があった。とにかく全力を尽くしたというプライド。じつは選挙運動は容易な部分で、肝心なのはこれからだという謙虚な気持ち。そして緊張していたのは、選挙はいつも予測不可能なものだからだ。世論調査や分析は、わたしに有利だった。前日、世論調査員のジョエル・ベネンソンが、心強い報告書を送ってきた。それによるとトランプとの一対一の直接対決では五ポイント差で勝っていて、第三政党が入ると四ポイントのリードになる。「きっと勝つよ」ジョエルは言った。それでも、コミーやロシアのせいで、選挙運動はかなりの向かい風だった。何があってもおかしくない。
投票はその日の山場になった。
午後遅い時間にわたしたちがペニンシュラ・ホテルに着いたとき、情勢は良さそうだった。通りは警察官とシークレットサービス職員が封鎖していた。このホテルはトランプ・タワーからわずか一区画しか離れていない。結果が出るとき、二人の候補者は石を投げれば当たるようなところにいることになる。
わたしは頭をはっきりさせておこうとした。夫は出口調査を熱心に追ったものだが、わたしは聞きたくなかった。その日のうちの性急な報道が信用できるとは思っていなかった。それに、もう何もできないのに、わざわざプレッシャーを抱えこむ必要はない。数時間もすれば、結果は分かる。
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