ryomiyagi
2020/07/10
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2020/07/10
映画であれ演劇であれ、そして、私のように小説であれ、曽根崎心中を元にしたコンテンツを作ろうとした人が必ず頭を悩ます問題がある。
第一段「観音巡り」である。
曽根崎心中は四つの段で構成されている。
『日本古典文学全集〈43〉近松門左衛門集』の表記に従うと、「観音廻り」「生玉の場」「天満屋の場」「道行」である。
しかし、物語のなかでこの「観音廻り」がどうにも座りが悪いのだ。
ヒロインのお初が大阪三十三所観音巡りをするというだけの段で、元の文楽でも2017年4月公演はすっぱり割愛されていた。演っても、お初の人形が舞台の上でただちゃらちゃらやっているだけで、現代人には退屈だろう。
だが、それ以外にも、この段には問題がある。
第二段「生玉の場」、冒頭、お初は生玉社(生國魂神社)で徳兵衛と会い、豊後のお大尽と観音巡りをした後だと言うが、地理的に大分無理な話だ。
観音巡りは、当時の大阪では北の端といってもいい大融寺を皮切りにほぼ時計回りに大阪の街を巡っていく。大融寺を時計の0時とすれば、大体時計の六時の位置にあるのがコースの最南端の四天王寺で、最後の札所御霊社は大体十時か十一時の位置にある。
で、お初の勤める堂島の天満屋は太融寺の少し南、生玉社は四天王寺の少し北である。要するに、観音巡りを終えて生玉社に行くと、次の舞台となる天満屋から遠ざかってしまうのだ。
後で詳述するが、観音巡りは徒歩で丸一日かかる。お初と田舎のお大尽は駕籠(かご)も使っていたようだが、駆け足で全ルートを巡るのは体力的に無理である。休み休みになって、結局同じくらい時間はかかる。
朝から始めたとしても、終えた頃にはもう夕方で、そこから生玉社に行ったら、もう夜はとっぷり暮れていないとおかしい。まだ客の回り先が幾つも残っている徳兵衛が通りかかることもないはずである。
なぜ近松ほどのストーリーテラーがこんな無茶な設定にしたのか?
偉い学者さんにとっても難問であるこの問題を突き付けられた作家たちは皆苦しんだようである。
例えば、1978年の映画版「曽根崎心中」は、地理的な辻褄を無視して、札所参りを終えたあと、生玉社の茶屋に一息入れるため行きついたことになっている。ちなみにこの映画、宇崎竜童、梶芽衣子が主演だが、二人とも若いためにあまり上手くない。その代わり九平次役の橋本功が異常なモチベーションとテンションで怪演しており、とにかくまぁ面付きが憎たらしい。「こんな顔のやつに金を貸す方が悪い」と思ってしまったほどだ。
後に宇崎竜童は、自身のバンド、ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンドと文楽人形をジョイントさせ、阿木耀子構成・作詞で「曽根崎心中part2」を舞台化する。
実見してないが、その時、阿木が加えた工夫は面白かったようだ。
冒頭、観音巡りの寺を歌い上げていくのを、十八番目の生玉本誓寺までにとどめておくのである。本誓寺から生玉社は場所も近く、次の生玉の場につなげても無理がない。
では、残りの十九番から三十三番をどうしたかというと、心中のあとに歌い上げるのである。
一段目と二段目の断絶を劇全体のなかで消化するうまい方法だと思う。
じゃぁ、お前はどうしたんだ?と聞かれると、実際に小説を見てもらうほかないが、私にとっては一段目を劇中どう位置付けるかということ以上に、なぜ近松ほどのストーリーテラーがこんな無茶な設定にしたのか?ということの方が重要な問題だった。
そこに、この不朽の名作を読み解く鍵があると考えたのだ。
「観音巡り」に込められた謎。
それを解くためには自分自身がやってみるのが手っ取り早いだろう。
というわけで、2018年の春、大阪観音三十三所巡りに出かけた。
総距離二十二キロ。
一日で回れる距離なのだが、ゆっくり見て回りたかったので、二日に分けることにした。
一日目は一番札所大融寺から二十四番札所四天王寺の万灯院まで。二日目は四天王寺から初めて三十三番札所御霊神社まで。
実際歩いてみてまず分かったのは、大阪は多坂であること。とにかく坂の多い街だ。
天満から大阪城や四天王寺のある上町台地に行くには、緩やかで長い坂を上らなくてはならないし、台地上にも大小様々な起伏がある。
観音巡りの段に「上りやすなゝ、下りやちよこゝ」と書いてある通りである。
まぁ、アラフォーのおっさんが歩く様は到底「すなゝ」「ちよこゝ」ではなかっただろうが。
ところで、この大阪が多坂であることは、大阪の街の生い立ちに重大な関係がある。
よく言われることだが、古代まで遡ると、大阪の街はほとんどが川か海の底だった。
『地形から見た歴史』(講談社学術文庫)に掲載された6~7世紀頃の摂津・河内・和泉の景観を見ると、大阪平野も、上町台地を挟んで東側の河内平野もほとんどが水底。上町台地だけが、海とも川とも砂州とも潟とも知れぬ父母未生前のあやふやな景色のなかで、にゅっとペニスのように突き出している。
大阪の街の歴史は、このファルス、上町台地を中心に展開した。
上町台地南西端の住吉津と、北西端の難波津は大和朝廷にとって、最重要な外港だったし、七世紀には難波津を見下ろすように、難波宮が置かれる。ペニスの先端にあたる位置である。父権的な権力は父権的な場所をよすがにするものなのかもしれず、千年後ほとんど同じ立地に築かれるのが大阪城である。
もともと上町台地にはいくつもの谷があり、古代以来、それをこの地に盤踞した、大和朝廷、石山本願寺、豊臣秀吉、徳川幕府といった、歴代の権力が削り埋め立ててきた。そうした自然や人の残したひっかき傷のため、上町台地は起伏にとんだ地形になっているのである。
また、上町台地の西麓に広がる難波や道頓堀、心斎橋、梅田など、今では大阪の中心地となっている街並みも、もとは長年の淀川や大和川の堆積、そして人手による干拓によって出来た土地である。
上町台地からそれらキタとかミナミと総称される町に行くのは、岬から海へ出かけるのと同義だ。当然、長い坂を下らなくてはならない。
私は清水寺脇の清水坂を使って麓の松屋町へ下り、生玉社へ寄り道するため、源聖寺坂をのぼった。その急な坂は、かつて難波の海の波濤が打ち寄せる断崖であったことを彷彿とさせた。
大阪の多坂一つ一つに、街の歴史が込められている。
観音巡りで、お初がそれらの坂を「上りつ、下りつ」したのは、大阪の歴史の追体験に他ならなかったのである。
観音巡りをしてもう一つ感じたのは、札所の選択の妙である。
二十九ヶ所の寺院、四ヶ所の神社で構成された札所だが、今は移転や廃寺などで存在しないものが多い。しかし、それでも巡っているだけで、大阪の大体の観光名所は見物することが出来た。
札所に選ばれている四天王寺、清水寺はもちろん、大阪天満宮、大阪城、そして生玉社などの旧跡を寄り道して見物できる。当時の歓楽街、道頓堀沿いの芝居町、新町の色町も、その気になれば寄り道出来るので、なかには観音巡りは途中でよして、しっぽりふけこむ不届者もいただろう。
札所の配置を誰が考えたか分からないが、その人は現代に生まれても優秀な観光プランナーになれるに違いない。
坂の上り下りで大阪の特徴的な目鼻立ち、ひいては街の歴史を感じさせ、さらに観光名所を寄り道させることで大阪の「今」の賑わいが体験できるよう設計されていたのである。
ちなみに大阪三十三所観音巡りは、寛文年間(1661~1672)に出来たものだという。
観音巡り自体は、平安時代に西国三十三所観音霊場巡礼が出来たのを嚆矢として、坂東三十三所観音霊場巡礼、秩父三十四所観音霊場巡礼など、全国各地にあった。だが、こうした巡礼路は諸国にまたがり、とてもじゃないが庶民が行けるものではなかった。
それが、江戸時代に入ると、大阪、江戸、京都など大都市に住む町民層に富が蓄積され、そうした観音巡りを手軽にしてみたいという意識が生まれる。
大阪三十三所観音巡りはこうした新興の町民層の需要に答えて現れたものだった。
ちょっと話が逸れるようだが昭和三十年代の日本の映画を見ると、東京の街の景色や、働く人々の姿を映したショットが数多く含まれていることが多い。
失われた三十年の後の令和を生きる我々からすると想像しにくいことだが、繁栄に向かって力強く勃興する街に住む人々というのは、その様を記録し鑑賞したいと思うものらしい。
例えば、坂本九主演の「上を向いて歩こう」(1962年)は、ラスト坂本九と高橋秀樹と吉永小百合と浜田光夫が「上を向いて歩こう」を合唱して終わるのだが、彼らの歌声に重ねて、教室の小学生や、地引網する漁師、満員電車で通勤するサラリーマン、船に乗る港湾労働者といったカットが次々と流れていく。
そして、九ちゃんたちは最後、二年後に東京オリンピックを控える、国立競技場に辿り着くのである。
二度目の東京オリンピックが幻に終わりかねない今から見ると、目がくらみそうなくらい楽天的な絵で、同じ国とは信じられないほどである。
戦争の焼け野原から不死鳥の如く立ち上がって、高度経済成長の波に乗り、東京オリンピックを手土産に国際都市に返り咲こうとする街と、それを成し遂げた住民の力と自信がフィルムからあふれ出しそうである。
この映画のショットの意図は明らかである。
若者の群像劇の大円団に街の景色を重ねることで、映画のもう一つの主人公が東京の街そのものであることを示しているのだ。
翻って、曽根崎心中について考えてみよう。
曽根崎心中は元禄十六年(1703)五月、道頓堀、竹本座で初演された。前の年の十二月には赤穂浪士事件が起き、元禄バブルはまさに頂点に達しようとしていた。
大阪の陣でもたらされた荒廃から、天下の台所として確固たる存在感を示すまでに、大阪を復活させた町民たちこそが、その時の観客だったのである。
ここまで考えると、一見蛇足のように思える「観音巡り」を最初の段に持ってきた、近松の意図が分かってくる。
この物語のもう一つの主人公が、他でもない大阪の街そのものであることを、観客たちにむかって暗示するためだったのだ。
観音巡りについての謎は解けた。
しかし、二段目の舞台が、何故生玉社になったのかという謎が残っている。
地理的に無理がある生玉社に何故お初がいるのか?
その謎を解くためには、遠く古代まで歴史をさかのぼらなくてはならない。
先に述べた通り、上町台地は大阪の街の中心軸であり、河内王朝が都を置いて以来、権力者の角逐の場所となった。数多の英雄が運動会の棒倒しのように、この台地に取りすがって争った。
古くは蘇我氏と物部氏の戦いがあり、楠正成が鎌倉幕府勢を翻弄し、織田信長と石山本願寺が血で血を洗う十年戦争を繰り広げ、とどめに大阪夏の陣で真田信繁が徳川家康本陣に突撃し玉砕を遂げた。
彼らは皆上町台地のなかでも、特に最北端の地、今、大阪城がある土地を巡って争った。
天才的な宗教家でありオーガナイザーだった蓮如がその「御文章」のなかで「往古よりの約束」と表現した通り、まさにその地は約束の場所、覇王の住まう土地だった。
しかし、そうした男たちの角逐の場のすぐ傍らに、平和と繁栄を願う女性たちがいたことはあまり知られていない。
中沢新一氏の『大阪アースダイバー』によれば、「河内王朝」と呼ばれる皇統が、上町台地に都を営んでいた頃、「イクシマタルシマ(生島足島)」という巫女集団がいたのだという。
この巫女たちは当時海中に浮かぶ岬のようだった台地から、海とも川とも砂州とも潟とも知れぬ麓の景色に向かって「無事、立派な島が産まれますように」と祈りを捧げ、八十島祭祀という祭儀を執り行った。
中沢新一氏は言う。
「イクシマ・タルシマの巫女たちは、自分たちがまさに生まれでようとする島そのものに化身して、きれいなかたちをした島の出現を促そうとしたのである」
(『大阪アースダイバー』中沢新一著、講談社)
そして、このイクシマ・タルシマの巫女たちが祈りを捧げていた場所こそが、生玉社なのだった。
豊臣秀吉によって、大阪城の傍から、今ある場所に移し替えられたが、天王寺の西崖が張り出している場所で、麓との標高差は十八メートル。大阪城に負けず劣らず見晴らしがよく、江戸時代に設けられた本殿裏の舞台、絵馬堂からは、六甲の山並みや淡路島まで一望することが出来たという。
そこから見える、麓の市街の賑わいは、まさにイクシマ・タルシマの巫女が願ったことだった。
かくして、お初が生玉社を介してイクシマ・タルシマの巫女と結びつく。
つまり、お初はイクシマ・タルシマの巫女の後裔なのである。
だからこそ、地理的な辻褄があわなくとも観音巡りのルートから生玉社にジャンプしなくてはならなかった。
イクシマ・タルシマの巫女たちが、大麻の煙を吸って、神憑りのエクスタシーの最中、祈り願った大阪の街の繁栄を見届けるために生み出されたのがお初だったのである。
生玉社の謎を解いた我々は、曽根崎心中という物語が、大阪の街の繁栄を願った祈りに他ならない事に気づく。
では、お初が死ぬことにはどういう意味があったのだろうか?
まず、曽根崎心中が初演された年代を確認してみよう。
元禄十六年(1703)。
元禄は十七年まで続くので、つまり元禄が終わる前の年である。
元禄は偉大な時代だった。
徳川綱吉という良くも悪くも個性的な将軍を得て、未だ残っていた戦国の遺風は一掃され、近世という新たなシステムが完成した時代であった。
戦国時代が終わり、それまで戦争に向けられていたエネルギーが一気に経済や文化に傾けられた結果、日本の国富と人口は驚異的な速度で成長していく。
総石高は慶長三(1598)年の1851万石から元禄十(1697)年には2588万石に増え、磯田道史氏によれば全人類のうち二十人に一人が日本人になったという。
江戸開府以来の成長が文化・経済、様々な面に花開いたのが、元禄時代だった。もちろん、その一つの成果が文楽でもある。
しかし、それは江戸時代がはじまってからずっと続いていた高度経済成長がひと段落することも意味する。
それは、井原西鶴と近松門左衛門、同じく大阪を拠点にした作家で、一時はライバル関係にもあった二人の作風の違いにあらわれる。
近松より十一歳年上の井原西鶴の作品には底抜けの明るさと欲望の肯定があるが、そうした無邪気な楽天性は近松の作品にはない。
「いつか祭りは終わる。いやもうとっくに終わっているのかも」
作中、そんなペシミズムが通奏低音のように流れている。
近松が街を見るスタンスは先述の「上を向いて歩こう」(1962年)よりも、約二十年後に公開された『異人たちとの夏』(1988年)、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)の方が近いのかもしれない。
両作ともバブル真っ盛りの頃に公開され、同じく東京をテーマにしていながら、街への解釈は悲観的で、崩壊の予兆を感じさせる。
『異人たちとの夏』では、風間杜夫紛するシナリオライターと、若くして亡くなったはずの両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)との一夏の邂逅が描かれる。その際、幽霊である両親が住まう古びた文化住宅風が確かな質感を持って描写されるのに対し、それ越しに見える高層ビルディングは朧気で幻のようである。
バブル期の日本人が感じていた、振ってわいたような豊かさに対する、なんとない座りの悪さ、居心地の悪さがよく描かれている。
『機動警察パトレイバー the Movie』は当時としては近未来の1999年の東京を舞台にした映画だが、東京湾を埋め立て街をさらに拡張しようとするバビロンプロジェクトにどのような暗揄が込められているかは明らかである。
次の松井刑事と、特車二課の後藤隊長の対話は、戦後復興以来、走り続けた日本人の疲れ、虚無感を端的に表しているもののように思う。
「……それにしても奇妙な街だなここは。あいつの過去をおっかけてるうちに、何かこう時の流れに取り残されたような、そんな気分になっちまって。ついこの間まで見慣れてた風景があっちで朽ち果てこっちで廃墟になり、ちょっと目を離すときれいさっぱり消えちまってる。それにどんな意味があるのか考えるよりも速くだ。ここじゃ過去なんてものには一文の値打ちもないのかも知れんな」
「俺たちがこうして話してるこの場所だって、ちょっと前までは海だったんだぜ。それが数年後には、目の前のこの海に巨大な街がうまれる。でもそれだってあっという間に、一文の値打ちもない過去になるに決まってるんだ。たちのわるい冗談につきあってるようなもんさ……」
ここには「上を向いて歩こう」で見られたような楽天性は欠片もない。
無目的に成長を繰り返す、癌細胞のような街、いずれ自己崩壊に陥るであろう土地に拠って立つしかない、自身への不安と懐疑があるのみである。
元禄十六年に曽根崎心中を書いた近松がまとっていた時代性もまた『異人たちとの夏』(1988年)、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)の二作品に近い。
十七年に元禄は終わり、その六年後の宝永六(1709)年、徳川綱吉も世を去る。そして、新井白石の登場により、元禄バブルは泡と消えるのである。
そんな時代の大きな転換点にあって、近松は大阪の街を来るべき崩壊から救わなくてはならなかった。
そのために捧げられた生贄がお初だったのである。
本来、痴情のもつれで情死しただけの浅はかな娘を、近松は様々な技巧をほどこして聖女に祭り上げた。
そして、その上で曽根崎の森で殺したのである。
では、何故曽根崎だったのか?
お初が死んだとき、曽根崎は大阪の北の果て、その森は大阪の街にわずかに残された手つかずの処女地だった。
だが、実は曽根崎心中が初演されたまさにその年に新しい色町として曽根崎新地が開かれる。
お初が働いていた堂山新地は、色町から諸藩の蔵屋敷が並ぶビジネス街となり、その賑わいはすぐ北の曽根崎新地に取って変わられる。
そして、曽根崎新地の誕生を最後に、大阪の街の大阪の陣以来の成長は終わり、その輪郭が確定するのである。
曽根崎はまさに古代、イクシマ・タルシマの巫女の願いが尽きる場所であった。
だからこそ、その後裔たるお初は願いの行く末を見届け、己が血でその永続を保証しなくてはならなかったのである。
ちなみに、どうも街の外郭というのは色と死でおおわれるものらしく、曽根崎よりさらに北の梅田は墓場だった。
梅田に街の光が届くのは、1874(明治7)年、江戸時代を終わらせた蒸気機関によってである。
この年、大阪・神戸間を結ぶ鉄道が敷設され、梅田に大阪駅が開業された。
神戸、その向こうの世界と連結されることによって、停滞は破られ、大阪は再び成長をはじめた。
曽根崎心中から実に171年の年月が流れていたが、巫女たちの、近松の、そしてお初の願いは聞き届けられたのである。
そして、大阪は今も様々な問題をはらみながら、しぶとくしたたかに生き続けている。お初の眠る、露天神に祈りの火が途絶えぬ限り、きっとこの街は永遠なのだろう。
参考文献:
『日本古典文学全集〈43〉近松門左衛門集』(小学館)
『現代語訳 曽根崎心中』(近松門左衛門、高野正巳、宇野信夫、田中澄江、飯沢匡著、河出文庫)
『凹凸を楽しむ 大阪「高低差」地形散歩』(新之介著、洋泉社)
『大阪まち物語』(なにわ物語研究会著、創元社)
『大阪暮らしむかし案内 江戸時代編 絵解き井原西鶴』(本渡章著、創元社)
『大阪名所むかし案内 絵とき「摂津名所図会」』(本渡章著、創元社)
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』(安藤優一郎著、カンゼン)
『大阪アースダイバー』(中沢新一著、講談社)
『地形からみた歴史 古代景観を復原する』(日下雅義著、講談社)
『日本史の内幕』(磯田道史著、中公新書)
『『曽根崎心中』「観音めぐりの復活」』(向井芳樹著)
黒澤はゆま(くろさわ はゆま)
歴史小説家。1979年、宮崎県生まれ。著書に『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録』(河出書房新社)、『なぜ闘う男は少年が好きなのか』(KKベストセラーズ)、『戦国、まずい飯!』(集英社インターナショナル)がある。好きなものは酒と猫。作家エージェント、アップルシード・エージェンシー所属。
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