gimahiromi
2019/06/26
gimahiromi
2019/06/26
今、私は、愛の不毛地帯に生きている──。
この一言を読んだとき、おそらくほとんどの人が、現代社会の貧困や虐待、イスラム圏からヨーロッパで収まることのない紛争や難民問題などを思い描いたりはしないだろうと思います。
もちろん、それらの問題がどれだけ深刻で愛に欠け、悲惨で世界にとって重大なできごとなのかということはよくわかっているわけですが、それでも考えてしまうのは自分自身のことなのです。
そう、たしかに、今の私のいる場所は愛の不毛地帯である。
なぜなら、私を愛してくれる人がこんなにもいないのだから。という思いです。
朝、目が覚めても、部屋には自分しかいなくて、誰のぬくもりも感じられない。カーテンを開けると陽ざしが部屋いっぱいに入り込んでくるのに、心の中までは照らしてくれない。
世界には、本来はたくさんの光があふれていて、明るく暖かいはずなのに、なぜ私の世界はこんなにむなしく冷たく、息苦しいものなのか、という不毛です。そしてそれは、私に愛が満ちていないからだ、と思うのです。
だから、誰か愛をくれる人と出会いたい。
そして、「あなたは素晴らしい」「いつまでもそばにいて」と言われたい。たくさんの人ではなくていいのです。たったひとりの人でかまわないのに、いったい私に限っては、なぜそんな小さな愛さえも実感できないのだろう。
でも、実のところは、そういう私の発想そのものが、殺伐とした愛の不毛をもたらしているのではないか。これがこの本の出発点です。
「愛の不毛地帯」と言われたとき、その言葉にピンときたほとんどの人は、私には愛が足りない、私は十分に愛されていないからだと感じてしまいます。そのイメージそのものが、不毛という風景を作り出しているのです。
ですから考えてほしいのは、私の中には本当に愛が欠乏しているのだろうか。そしてそれは、愛を受け取っていないからなのだろうかということです。
もしも今、自分から誰かに向かって愛を発しているイメージをひとつでも持つことができれば、そこから心の中の景色はだいぶ変わってくるのではないかということなのです。
愛について、次のような有名な言葉があります。
愛は受動的な感情ではなく、能動的な活動である。
そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむもの」である。
愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
『愛するということ』エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学、精神分析、哲学者)
フロムのこの本はまさに、「愛されるより愛すること」というテーマで1950年代に出版された名作です。世界各国で現在も読み継がれているベストセラーで、私もファンのひとりですが、最近は、今の時代の私たちにはちょっとこの内容は厳しすぎるのではないか、という気がしてきました。
フロムは、「愛は受動的な感情ではない」「落ちるものではない」「もらうことではない」と言いきっています。しかし私は、自分からアクティブに行動し、積極的に愛していきながらも、自分の中に流れ込んできた愛の感情に振り回されてもがき苦しむのもいいし、愛を受ける喜びを享受するのもいいと思います。
また、フロムの示す愛は、かなり禁欲的です。たしかに、作者が生きた時代の中では、邪悪なものや間違っている愛に対しては不寛容であるべきだったでしょう。
しかし、前述したように、現代は彼が生きていた時代より、人間をロボット化するようなシステム化がより進んでしまっています。
こんな時代は、あえて邪悪さとか不完全なノイズを投入していってもいいぐらいで、そうでなければシステム自体の純化していく力に、個人がどんどん負けていってしまうのです。
『愛するということ』の原題は『アート・オブ・ラビング(The art of loving)』で、アートは「技術」という訳語が当てられています。しかし今、私たちに求められているのはむしろ「芸術」としてのアートではないかと感じます。
正しさだけではなく、時に背徳的な愛であってもいいのではないか、というところまで含めて、愛を掘り下げていけたらおもしろそうです。
もちろん、「愛されるより愛すること」という基本テーゼには、大賛成です。
「愛されたい」というだけでは、相手に対する完全な依存になってしまいます。いったいその愛の中で、私自身はどう存在しているのかというオリジナリティが問われません。ひょっとして、その愛に包まれているのが、私ではなく隣のA子さんだったとしても、何の変わりもないし、誰も困らないのかもしれない。
いや、そんなことがあっては困りますから、やはり私ならではのオリジナルな愛を発することは重要なのです。
誰もが生身の人間です。お釈迦様とか聖母マリア様が、一点の曇りもない愛をかわしているわけではないのです。人間同士の愛にはゆらぎがあり、いつも同じ調子というわけにはいきません。それこそが生きているということです。
言いすぎたり言わなすぎたり、距離感が取れなかったりタイミングがずれたりして、ゆらぎどころか、人と人とのつながりには思わぬゆがみが生じることもあります。
そのゆらぎやゆがみを許しながら人と人との愛はあります。そして、自分が愛しているということの幸せ感と、愛されているという幸せ感。この両方をバランスよく感じている状態が、愛の喜びをもっとも感じることのできる状態になっていくのです。
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