#BlackLivesMatterのその先 「黒塗り禁止」ではなく、黒が差別を暗示しない社会を目指すこと
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ryomiyagi

2020/07/10

アメリカで広がりを見せる黒人差別抗議運動。私たち日本人にとっても、全く無関係ではありません。しかし人種差別を克服しようとするとき、かつての『ちびくろサンボ』発禁処分や、手塚治虫作品が攻撃された問題など、“順序”を間違えた方法が取られることが多くあります。自身がいじめを受けた過去を持ち、現在、感染症対策の専門家として国際的に活躍する岩田健太郎さんは、その理由を「ゴールを見失っているから」だと話します。

 

※本稿は、岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

 

■タブーを共有する意味はない

 

無知は、差別の温床だ。テレビで日本のタレントが顔を「黒塗り」にしたとき、「あれは黒人の友人とかがいないからそんなことができるんだ。もし知っていたら絶対にそんなことはしない」と憤った人がいる。

 

それは事実かもしれない。多くの日本人は、「黒塗り」が英米文化圏でのタブーであることを知らなかったのだから。

 

では、そのような知識の獲得を受けて、日本でも黒塗りをタブーとすべきか。

 

ぼくは逆だと思う。

 

かつて、『ちびくろサンボ』という絵本が、黒人差別を助長するという理由で発禁処分にされたことがあった。手塚治虫の漫画も同様の理由で攻撃された。

 

どこにも黒人差別を明示も暗示もしていないこれらの表現に対する規制は、例えば黒人などを見たことがない多くの日本の子供たちの黒人理解の妨げにこそなれ、理解推進にはなんの役にも立たなかっただろう。

 

とはいえ、日本人もパニクってばかりではない。その後、理性をもって『ちびくろサンボ』は復刊され、現在では手塚治虫の漫画も読むことができる。これらは黒人差別克服の一助にこそなろうが、邪魔になることはあるまい。

 

スペイン語で「黒」は「negro(ネグロ)」という。ただそれだけの単語で、黒という色以上の意味はない。もともと「negro」はラテン語由来の、単に色を表す価値中立的な単語である。イタリア語のネッロやフランス語のノアールも同様だ。

 

英語圏でネグロがタブーとなったのは、その歴史の故である。その歴史を、英語圏以外の人々が認識することの価値は高いだろうが、他者がその歴史を背負ってタブーを共有する意味はない。

 

アメリカ人やイギリス人が、「いやいや、ネグロは黒人差別を象徴する単語だから、そんなの口にしちゃだめですよ」なんて言えば、スペイン人は鼻白み、「そんなの、オタクたちの歴史でしょ」と肩をすくめることだろう。

 

スペイン人が差別や弾圧の歴史を持たないわけではない。前述のように、大航海時代にはアメリカ大陸でずいぶんひどいことをしている。同時期にポルトガルと一緒に日本人奴隷を売りさばいていたのも、前述のとおりだ。

 

しかし、スペイン人は、アメリカ人やイギリス人がやったような構造的な黒人差別の歴史を持たない。

 

黒人を奴隷にし、商品として船に積み込んで苛烈な状況下で移動を強い、乗り物やレストランや学校を区別し──という、こうした(特にアメリカの)徹底的な差別の歴史が、「negro」をタブーなコトバとしたのだ。

 

■ノーマライゼーション──差別を乗り越えることのゴール

 

実は日本人も、黒人差別と無縁ではない。2015年に曽野綾子氏が行なった黒人蔑視的な発言を、ぼくは問題視し、批判している。日本人が差別をしない国民だなんていうのも戯言に過ぎず、現在もこの国では、あれやこれやの差別でいっぱいである。

 

が、たとえ一部の日本人に黒人蔑視の観念があろうと、英語圏で起こった構造的な黒人差別の歴史を共有しているわけではない。その歴史が生み出したタブー表現を共有しなければならない義務もない。

 

もともと日本では、歌舞伎などに始まり、人が何かに扮するときに顔を塗る習慣がある。白く塗り赤く塗り、そして黒く塗ってきた。そこにはなんの含意も暗示もなく、色はただの色である。スペイン人がネグロと言うのとなんの変わりもない。

 

英語圏の人で、そのような日本の文化を不愉快に思う人がいたら、(スペイン人がそうするように)ちゃんと説明すればよいのだ。そこには差別の暗示はないのだと。もし、差別表現が実際にあれば、個別にそれを批判すればよい。とんねるずの男性同性愛者差別は、明らかに差別を意図していた。

 

しかし、暗示のない形式そのものをタブーにすれば、それは『ちびくろサンボ』のときと同じ失敗を繰り返すことになる。

 

1999年に、ぼくはペルーで熱帯医学の実習を受けていたが、同時期に勉強に来ていたハーバードの医学生の言葉が忘れられない。

 

彼女は黒人だった。黒人女性がハーバード医学校に入学するのはとても大変なことであり、それはそれは苦労したのだという。

 

当時、アメリカでは、黒人をブラックと言うのは差別語だと規定し、アフリカン・アメリカンと呼べ、とぼくら研修医に教えていた。これに対し、彼女は「黒い肌を黒と言って何が悪い。それをタブーとする態度が、それこそ差別だ」と憤っていた。

 

そのとおりだとぼくも思った。日本語で「黄色人種」は単なる人種の分類だが、英語でイエローは差別を暗示するから、「Asian」と言わねばならない。

 

イエローが悪いからではなく、黄色人種差別があるから、イエローがタブーになるのだ。順序を逆にしてはならない。

 

我々が目指すべきは、黒が差別を暗示しない社会を目指すことだ。黒色のノーマライゼーションである。なぜ黒塗りが差別を暗示しない文化圏で、差別のタブーの文化を押し広げようとするのか。逆ではないか。

 

未来の、我々の子孫が、黒い顔を見ても何も差別の観念を持たないような社会を目指すこと。白塗りはいいけど、黒塗りはだめ。「黒」と口にしてはダメ、という社会を乗り越えることこそが、差別を乗り越えるゴールである。

 

繰り返すが、差別克服には過程というものが必要だ。「黒」が差別をインプライする英語圏で、いきなり全てをノーマライズせよ、と主張しているのではない。英語圏に出かけていって、わざわざ黒塗りを見せるような無配慮なことをせよ、と乱暴を言っているのでもない。

 

言いたいのは、差別のインプリケーション(含意)は、広げるのではなく、なくす方向に持っていくのが、あるべき姿だということだ。タブーを拡散していくなど、ゴールを見失った態度である。

 

過去の解説や現状説明で、本件を取り扱ってはならない。未来へのビジョンこそが必要なのである。

 

そして日本の諸々の議論の多くは、ビジョンを欠いている。しばしばあるのは、現状の説明だけなのである。

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ぼくが見つけたいじめを克服する方法

ぼくが見つけたいじめを克服する方法日本の空気、体質を変える

岩田健太郎

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