松竹の社名は兄弟の名前の頭文字。読みは「まつたけ」
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大阪松竹座

 

初出は新聞の記事だった

 

京都の明治座の開場は明治三十五年(一九〇二)元日だった。

 

一月三日の大阪朝日新聞に、「松竹(まつたけ)の新年」という見出しの記事が載った。少し長いが記念すべき記事なのでそのまま引用する。原文には句読点がほとんどないので、補った。

 

〈新京極明治座の新築落成して、舊冬舞臺開(きゅうとうぶたいびらき)の式を執行い一昨日より開演することは已(すで)に記したるが、本座の座主白井松次郎と大谷竹次郎と誠の實(じつ)の兄弟にて、竹次郎は實家を相續し、松次郎は白井家の養子となり、共に劇場の仕打を榮業として竹次郎は歌舞伎座、松次郎は夷谷座兼常盤座の仕打をして居りしに、不幸にして去年常盤座は祝融(しゅくゆう)の災に罹(かか)り、持主の株式會社は任意解散したるにぞ、松竹(まつたけ)の兩人(りょうにん)は之を惜み、一致協同して同座の跡式を引受け直に新築工事に着手したり、爾来(じらい)僅に二箇月ほどにて工事全く落成して開場の運びに至りしなるが、松次郎は今年年甫て二十五歳丁年に達したる後、間もなき壯年を以てかかる事業を迅速に成功せしめ、目出度(めでたく)新年を迎うること、偏(ひとえ)に兄弟の手腕敏活なると、且(あるい)は世人の信用厚きの致す處(ところ)なるべしと人々は云合りとぞ。〉

 

松次郎と竹次郎が「松竹」として活字になったのは、これが最初だった。この当時は「しょうちく」ではなく、「まつたけ」と読んだ。まだ会社組織ではなかったので、朝日新聞としても、松次郎・竹次郎の兄弟の名を略して「松竹」としたのだろう。新聞に記事が出たのをきっかけに、会社にしていないのは不便だと思ったのか、二人は「松竹合名会社」と名乗るようになる。「しょうちく」ではなく「まつたけ」とよむ。この二人の会社が「しょうちく」となるのは昭和になってからだ。

 

松竹兄弟による劇場改革の始まり

 

晴れがましい新劇場の開場ではあるが、松竹兄弟の内実は火の車だった。両親の蓄えから始まった事業は、この時期には「家計」レベルとは桁の違う金が動くようになっていた。しかし銀行が相手にしてくれないので、二人は相変わらず高利貸しからの資金で劇場の資金繰りをしていた。晴れの開場式ではあるが、二人が着る羽織袴も買えなかった。

 

明治座は劇場改革の一端として、引き幕をやめ、西洋式の海老茶のビロードの緞帳(どんちょう)をおろすことにした。これまで芝居では緞帳は引き幕よりも格下で小芝居の劇場のものとされていたが、高級なものへと逆転したのだ。幕間には洋楽の演奏も入れ、これも画期的だった。入場料も切符制にし、案内係などへの祝儀も全廃した。竹次郎のダニ退治は、制度化されたのだ。

 

さらに当時は開幕や幕間の時間が一定ではなかった。役者の準備ができしだい幕が開く。役者たちがのんびりしていたり、楽屋で客と話していたりすると、いつまでも幕が開かない。竹次郎はこの悪弊も断ち、定刻に幕を開けるようにした。いまでは当たり前のことが、この時代に始まったのだ。

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