「優性」「劣性」は変えるべき? 真の問題は「コトバ」になく、コトバの「使い方」にある
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BW_machida

2020/07/08

言葉の表記に関する問題は絶えず提起される。例えば遺伝子の「優性」「劣性」、2019年・中日ドラゴンズの応援曲内の「お前」問題など。自身がいじめを経験し、克服した過去を持つ岩田健太郎さんは、コトバという表面的な改善によって実質的な問題が放置されている現実を指摘する。本当に解決すべき真の「差別」はどこにあるのか、私たちが注意しなければならないことは何なのでしょうか。

 

※本稿は、岩田健太郎『ぼくが見つけたいじめを克服する方法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

 

◆残念な差別用語ぎめ

 

日本学術会議が、遺伝子の「優性、劣性」を「一方が劣っているかのような誤解を与える」という理由で「顕性」「潜性」に変えるよう提案している。

 

この手の短見は、昔から非常に多い。つまらぬことだと思う。

 

「一方が劣っているかのような誤解」を訴える諸氏に問いたい。「劣性」という遺伝子の呼称を根拠に「劣っている」と罵られて、なんらかの実害を被った方がどのくらいいるのだろうか。単なる懸念、脳内の妄想、机上の空論とでもいうべきではないのか。

 

日本「学術」会議というくらいなのだから、そのくらいの基礎データはちゃんととってから、この「頭の中」の懸念のリアリティを吟味すべきではないのか。

 

昔、ぼくが文章で「子供」という言葉を使ったら、「供」という漢字に差別的な意味があるから「子ども」と書くべきだと意見した人物がいた。その人物は当然大人である。

 

もし、子供という漢字を見て、その差別性を苦痛に感じ、ひどい目にあった子供が実際にいたら、ぼくはその子に平謝りに謝って、表記を改めることだろう。

 

しかし、そのような苦情を子供から受けたことは一度もない。こういうことを言うのは決まって、重箱の隅をつついていい気になっている大人だけなのである。

 

コトバは記号に過ぎない。その使い方がインプライ(ほのめかし)するものだけが、差別性を決定する。その表現型「そのもの」に差別性はない。そこに差別性を感じた人物自身が、内的に差別感情を内包している可能性はあるけれど。

 

「優性、劣性」と聞いても、ぼくはメンデルの豆とか染色体をまず想起する。たいていの人はこのくらいのイメージだろう。医療者なら、常染色体優性遺伝の疾患のほうが臨床的インパクトが強いなあ、とは思うかもしれない。劣性遺伝だから劣っている、などとは露ほどにも思わないはずだ。

 

要は、「優性、劣性」というのは、我々的には「ユーセー、レッセー」という記号に過ぎないのだ。なんなら、「You say, Let’s say」とラップ調に表記を変えようと日本学術会議が提案したのなら、少しはジョークを理解する、洒脱な人たちだ、とはぼくは思ったであろう。ケンセイ、センセイでは、現場レベルの聞き間違いによる「誤解」で、実害を被る可能性が高いはずだ。

 

花王は、職場での働き方改革や家事の分担をテーマにした「#BeWHITE」と名付けた取り組みを一時休止し、ネット上に開設したサイトを閉鎖したという。「ホワイト」の表現が「肌の色を連想させ、肯定する表現が人種差別に当たる」との理由だという。

 

世のホワイトさんやブラックさんは、さぞ困惑したことであろう。

 

ならば、(この手の言葉狩りがわりと盛んな)英国で開催されるテニスのウィンブルドン大会も、白いウェアだけというルールは人種差別を想起させるから(まさに)玉虫色にしてはどうかと提案し、葬儀のときの黒装束も、黒人差別のメタファー(かもしれない)から、レインボーカラーでやってはどうかと提案してはどうだろう。

 

◆言葉は、使い方だけが差別性を持つ

 

この話は別のところでも何度もしているが、もう一度ここでも紹介したい。

 

黒人差別問題で活躍したマーティン・ルーサー・キング牧師。彼のスピーチを聞くと、自分たちを「ニグロ」と称しているのだ。有名な「I have a dream」のスピーチもそうだ。(YouTubeで動画を見ることができる。〔日本語字幕付き〕)。

 

彼に横から、「キングさん、キングさん、『ニグロ』は差別語ですよ」と注進し、そのスピーチを放送するとき、放送局が「ピー」と音をかぶせて放送禁止用語扱いにしたら、噴飯ものであろう。

 

「ニグロ」という単語は記号に過ぎない。使い方だけが差別性を醸し出すのだ。

 

2019年、中日ドラゴンズの応援曲に「お前」と入っているから、応援団が使用自粛を要請されたそうだが、これも記号たるコトバの重箱の隅をつついているだけの、つまらない話だ(*『朝日新聞』(2019年7月10日))。

 

「お前」が元来は尊敬語だとか、そういう語源物語を展開したいのではない。語源なんてどうでもいい。今使われている言葉の意味だけが、コトバの意味だからだ。語源主義者は、本当に語源ベースでコミュニケーションをとりたいのなら、目上の方に「お前」とか「貴様」と言っていればいい。

 

そうではなく、応援団が曲に乗せて「お前」と言ったとき、本当にそれが選手に対する侮蔑や差別の意味を込めていると信じたのだろうか。

 

もし、本気でそう信じているのであれば、そうとうコミュニケーション能力が失調している。ファンがそんなことするわけないからだ。

 

上記の「優性、劣性」問題や、「ホワイト」問題などは全て、コミュニケーション能力の著しい欠如を原因とした問題なのである。

 

コトバの使い方であれば、もっとリアルな問題にメスを入れてほしいとぼくは思う。

 

先日、伊丹空港から秋田に出張したが、初老の男性が、若い女性の空港職員を、つまらぬ問題で怒鳴りつけていた。「俺様はお前を公の場で怒鳴りつけても許される立場の人間だ」という態度を顕にしていた。

 

特権的な立場がある、と信じ込んで、それを態度に示すのが差別である。こういう場所で年齢性別関係なく「お願いします」「ありがとうございます」「すみません」というコトバを使えない中高年男性は、非常に多い(中高年の女性にも少なからずいる)。

 

これが、リアルな差別だ。真に問題視すべき、コトバの使い方の問題だ。

 

皆さんは、空港や新幹線やお店で、こういう態度、とっていませんか?胸に手を当てて一度考えてみてほしい。

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ぼくが見つけたいじめを克服する方法

ぼくが見つけたいじめを克服する方法日本の空気、体質を変える

岩田健太郎

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