内澤旬子の島へんろの記(6)スタンプラリーではない。読経してこそ遍路
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ryomiyagi

2020/12/29

四国の中の、香川の中の、さらには小豆島だけで88箇所の札所があることを知っていますか?島に移住して6年目の内澤旬子さんが、いつかはやりたいと思っていた島へんろに挑戦。ヤギ飼いのため長期間留守にはできず、半日単位でコツコツと札所を回る「区切り打ち」。迷い、歩き、また迷い…‥。結願するまでの約2年を描いたお遍路エッセイ『内澤旬子の島へんろの記』の一部を、数回にわたって掲載します。

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写真提供/大林慈空

 

 そして堂内の入り口脇にある(もっと手前にある場合もある)杖立てに杖を入れて、中に入る。ロウソクを灯し、線香を立てる。結構な人数の団体だったので、ほとんどの人がロウソクと線香は遠慮していた。私も遠慮してしまった。で、読経だ。般若心経だけ唱えればいいというわけではない。
 出発時に配布された、慈空さん手描きのイラストが入った折本に、唱えるべきお経が印字されてある。これがポケットサイズで持ち歩きにとてもよく、その後もずっと使い続けてぼろぼろになってしまった。

 

 団体で礼拝する場合、先達と呼ばれるリーダーは、何度もお遍路をして、道も作法もよく知った人だ。「女子へんろ」の場合は慈空さんだ。その先達が読経をリードする。「経頭」というワンフレーズは先達が唱え、尺やリズムを把握しつつ、その次から唱える。これは、読経初心者にとってはとてもありがたいシステム。独立して歩くとなると、ひとりで唱えなきゃならないのだが、読経というのは、大勢の中で繰り返して読むうちに自然と節やリズムをとれるようになるものだ。
 や、私が音痴だからだろうか。般若心経は、学生の時に一応経文を見ずに唱えることができるようになっていたのに、残念ながらすっかり忘れている。しかし忘れているとはいえ、唱えれば出てくる。経文を見ながらであれば、スイスイ出てくる。しかし臨済と真言の違いなのか、般若心経の前につく懺悔文には全く記憶がない。唱えたこともないのですぐにつっかかってしまう。

 

 そして般若心経の後の真言。本尊によって違う本尊真言、光明真言、このあたりは「ザ・密教」といわんばかりの独特のひらがな表記。「そわか」、とか「まにはんどま」、とか。唱えると脳内で千日行の阿闍梨が走り出す(あくまでもイメージです)。おいおい、それは天台宗……と脳内で突っ込みが入る。すみません。慈空さんが木魚を叩くリズムの刻みがどうしても走り回ってる感じがして。しかし真言を自分で唱える日が来るとは思わなかったなあ。腹に力を籠めないと発音しにくい、不思議な文言だ。続いて大師宝号、つまり南無大師遍照金剛に、廻向文。こちらは比較的すんなり唱えられる。

 

 読経についてのじくじくした思いや疑問は、今はいったん預けて、女子へんろ、そしてその先のひとり遍路でも、まずはきちんと唱えようと心に決めていた。心がこもっているのか微妙で大変申し訳ないが、遍路すると決めたのだから。
 しかし慈空さんの読経は素晴らしい。若く、張りのある声。斬り込むような節。生意気を言わせてもらうと、すごく彼の性格が出ていると思う。経文と真正面から向き合っている感じがする。(つづく)

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