歩いて、迷えば、疲れもたまる。イメージとちょっと違うお遍路巡礼
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ryomiyagi

2021/02/04

写真提供/内澤旬子

 

般若心経を唱えながら、歩いて、歩いて、歩く。人間の煩悩の数とおなじ八十八ヶ所の霊場を巡ることで煩悩が消え、願いが叶うといわれるお遍路には、どこか穏やかで落ち着いたイメージがある。たっぷり時間をかけて長い距離をまわる、俗世を離れての巡礼は生まれ変わったような清々しい気持ちになるとの感想も耳にする。と思いきや、そうとも限らないようだ。

 

内澤さんはまず、スマートフォンを持っていくか家に置いていくかで頭を悩ませている。私たちは皆、日頃からスマートフォンにお世話になりっぱなしの生活を送っている。現代人にとってスマートフォンは生活必需品だ。遍路中はデジタルデトックスするのがよいとアドバイスを受けたものの、しかし、何かあったときのためにぜひ持っていきたい。それでなくても内澤さんには、スマートフォンが手放せない理由がたくさんあるのだ。

 

「まず第一の理由は、治安の問題。何かあった時の備えを各方面から推奨されている身上である。一一〇番通報できるツールを手放すことはできない。それと時刻確認。この先歩き道を一筆書きのようにつなげるためには、バスの利用も視野に入れている。一時間に一本程度で運行しているバスに、乗り遅れるわけにはいかない。時刻を見るだけなら腕時計でもいいのだけれど、まともな腕時計を持っていない。そして第三の理由が、現在地確認機能だ。しかしこの機能をつけっぱなしにして歩いて楽しいだろうか。」

 

そこで内澤さんは、歩きスマホならぬ「歩き遍路」中のスマートフォンとの付き合い方を考え、持っていくことに決めた。

 

問題はほかにもある。歩き遍路をするために荷物をなるべく減らしたいのに「荷造りが壊滅的に下手くそ」なせいで、荷造りが終わらない。

 

「荷物はなるべく少なくと思いながら、なかなか減らない。さんや袋に六割くらいの量で抑えておきたいのだ。いや、理想は五割。半分はあけておきたい。そうすれば昼ご飯を入れて、さらに暑くなってきたころに脱ぐ服を小さく畳んで収納できる。」

 

歩きはじめてからも、内澤さんのお遍路はてんやわんやだ。たとえば六十三番の蓮華庵でのエピソード。無事に目的地にたどり着いた内澤さんは鐘をつき、金剛杖を置き、くっついて並んだ本堂の右手の大乗殿へと入っていく。そこで灯明、線香、賽銭をして読経。これでやることは無事終えた、と思いきや納札を忘れていたのでケースから札の束を出して日にちを記入し木箱に入れる……。なんとか歩いてはいるものの祈る気持ちにはなれず、道に迷ってビクビクしてばかり。心をよぎるのは読経を間違えていないか、上手く唱えられているかという不安。そのうえ、道に迷うたびに疲れが溜まっていく。

 

半泣きで西光寺へ向かいながら「コースのほとんどで迷っている。自分の人生より迷走しているんじゃないか。これでは瞑想どころではない。」と冴えわたるギャグで自身を振り返る場面など、内澤さんを労わりたくなるようなエピソードが満載だ。

馬場紀衣(ばばいおり)

馬場紀衣(ばばいおり)

文筆家。ライター。東京都出身。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。国内外の大学で哲学、心理学、宗教学といった学問を横断し、帰国。現在は、本やアートを題材にしたコラムやレビューを執筆している。舞踊、演劇、すべての身体表現を愛するライターでもある。
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