2018/12/27
宮坂裕二 放送局プロデューサー
『未完の巡礼 冒険者たちへのオマージュ』山と渓谷社
神長幹雄/著
裏方に徹する繊細な表現者、山岳雑誌『山と渓谷』の元編集長・神長幹雄氏(68)らしいセンスが光るタイトルの書籍がある。
ここには、植村直己、長谷川恒男、星野道夫、山田昇、河野兵市、小西政継の6名の冒険者たちが取り上げられている。(敬称略)
さすがに国民栄誉賞の植村直巳はご存じだろうが、植村を含めた全員が冒険の途上で命を落としたのだが、いずれも著者・神長氏とは親交が深かった方々である。
同書は、6名が亡くなられた現場に、後年神長氏自らが足を運んだ記録の書でもある。
番組企画で、医師で登山家の今井通子氏と著者・神長氏とにこの著書を巡る対談をしていただいた。
「執筆のいきさつは?」との今井氏の質問に、「定年し、まずやってみたかったことが亡くなられた方々の現場を訪ねる巡礼だった」と答える神長氏。
「人は最期を意識した時に、本当に大切なものがなんだったか見えてくるもの。山岳編集者の総括として6名の最期と巡り会いたかった」という。
著者として神長氏が「忌憚ないところの感想を」と今井氏に求める。
「男性ってどこかで、アイツには負けたくないとか、どこか競争意識が働きがちで、死に急いでるような気がする」と応じる今井氏。
「人間たちの驕りというか、誰よりも早く自然を征服してやるぜ!という意識が働くんでしょうね。私たち(女性)とちょっとモーチベーションが違うかな。私は自分の技量とマインドが整った時に登るんだけどね。」と続けた。
男たちの潜在意識の中にある共通項としての競争意識を喝破されてしまった気がした。
対談が進む中、両者の口が揃った。
「世間の皆さんに、山田昇という名を知ってほしい」ということだった。「凄さが見えない人」「田舎のプレスリー」「おちゃらけが好き」と称するが、山田昇の名前を知ってほしいがために、この書を書いたとも話す。
続けて、「世間受けする派手さはないが、登山家としての力量は群を抜いていた」との神長氏の言葉に、「もしこの世に、エベレストよりも高い山があったとしても、彼なら難なく登頂できた」と今井氏が返す。
山田昇について、同書に章が設けられている。
山田は1950年群馬県沼田市生まれ。北に谷川岳や上州武尊山(ほたかやま)、南に赤城山などに囲まれた沼田市のリンゴ園を営む農家に生まれる。
世界には8000m級の山が14座あり、山田は、1989年当時、14座中9座を登っていた。
この記録は、当時、世界3番手に位置していた。そしてその1989年、39歳で早逝した。
神長氏は「1年間で3座を登るハットトリックを2回も達成している。考えられない快挙で、後2年もあれば14座全て登り終えていただろう」と早逝を惜しむ。
医師でもある今井氏は「生理学的に、寒い高所で低酸素の環境では、最終のエネルギー源としてのたんぱく質としての筋肉が削がれるのは必至で、年に3回もこなせたというのは尋常ではない肉体の持ち主」と見解を続けた。
そんな山田昇の最期の地となったのは、奇しくも植村直巳の逝ったマッキンリーだった。
「マッキンリーは標高こそエベレストよりも低いのだけど、高緯度の影響で、エベレストよりも強い風が吹く地」と今井氏は経験を語る。
滅多にアンザイレン(登山用ロープで互いの身を結ぶあうこと)しない山田が、遺体発見時に他の2名としっかりとロープが結わえられていたことに驚いたと著書には記されている。
滑落で仲間を失った経験のある山田は、「アッという声がしたので、振り返ると、(仲間が)頭からもんどり打って転がり、どんどん加速がついて視界から消えていった。」と悔し泣きしたとの記載がある。
エベレストをも凌ぐ強風のマッキンリーで、滑落死した仲間のことがよぎっただろうことは容易に想像できる。山田のアンザイレンに、「仲間を想う山田の人柄が再認識できた」と現場を訪れた神長氏は語る。
群馬県沼田市の沼田りんご園内に、山田の名を冠した“山田昇ヒマラヤ資料館”がある。
読後、リンゴ大好きの我が子を連れて、冒険者・山田昇を育んだ地を訪ねてみたいとおもった。
『未完の巡礼 冒険者たちへのオマージュ』山と渓谷社
神長幹雄/著