akane
2018/10/19
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2018/10/19
【前編はこちら】
現在は共働き家庭が専業主婦(主夫)家庭を上回っていますが、1990年代半ばまで、日本では専業主婦家庭がメインでした。働く女性の中には、「母は専業主婦だったから兼業主婦のロールモデルがいない」と言う人もいれば、「専業主婦の母を見て、自分は働きたいと思っていた」という人もいます。
多かれ少なかれ、母の生き方は娘の生き方や考え方に影響を与えています。
現在、30~50代の女性たちの母の世代は、ちょうど団塊(1947~49年生まれ)やポスト団塊の世代(1950年代前半生まれ) 。その世代の母たちは、高度経済成長を体感しつつ、中には60~70年代の学生運動やウーマンリブを身近に感じていた人もいるはずです。
そしてその娘たちは、バブル期(といっても女性の就職活動は難しかった時代)もしくは氷河期に就職活動や結婚をし、現在は子育てをしたり、離婚をしたり。その娘たちにとって、母たちはどう見えたのでしょうか。
母たちの物語を娘が語ることにより、表舞台で語られることの少なかった「女の物語」「女の戦後史」「女から見た1960~1990年代」を浮き彫りにしたいと思います。
――治部さん自身は、進路や就職についてどう考えていたのでしょう。
治部さん:1990年代の始め頃、まだバブルの影響が残っていた時期でしたが、家を建てることになって千葉の田舎のほうへ引っ越したんですね。私は高校2年でした。のんびりした高校で、「女の子は四年制大学に行くと、結婚が遅くなる」という家の子もいました。私の場合はそう言われることはなくて、大学から一人暮らし。祖父の出身だったこともあって、一橋大学を志望しました。祖父が学生だった頃、一橋に女子学生はいませんでしたから、孫の世代の私が入学できたのも、時代の変化ですよね。学部選びのときは、女性の仕事が限られていることは知っていたので資格を取りたいと思って法学部。入学当時は司法試験を目指していましたが、こちらはすぐに挫折しました。
――結果的に日経BP社に入ったのは?
治部さん:当時は実は、就労意欲が全くなかったです。入っていたゼミが左翼的で、企業のイメージは「汚職」みたいな(笑)。経営者といえば、トランプ大統領みたいな人がやっているイメージでした。でも就職しないと自活できない、自活できないと実家に帰るしかない……と考えて、本を読むのが好きだったから出版社を受けました。
――当時は就職氷河期よりも前ですね。
治部さん:そうですね。当時は都市銀行がたくさんあったので同じ大学の男子たちはメガバンクを滑り止めにして、どこに行こうかなって迷っていたと思います。でも女子は総合職の募集が少なくて、就職内定の時期も男子より平均で1か月ぐらい遅かったと思います。
――治部さんは1997年に一橋大学を卒業されています。今から約20年前の状況が、そういう感じ。
治部さん:女子は就職で差別を受けるのが当然という時代でした。説明会に行ったある不動産会社では、「女性は事務職です」って言われました。手を挙げて「女性が総合職を希望したら?」と質問をしましたが、「事務職です」だけ。その後の筆記試験を受けながら、具合が悪くなりました。そういうのを経験するうちに、自分にとって何がどうしても嫌なのかを肌感覚でわかるようになりました。「女はこう」って言われるのが、私はすごく嫌だなって。男っていうだけで、私よりも能力のないかもしれない人から指示を受けるのは嫌だと。
――その不動産会社に入社することにならなくて、本当に良かったですね。
治部さん:その不動産会社の面接の日に、日経BP社の合否がわかることになっていたんです。不動産会社の最寄り駅について、電話で留守電を確認したら受かっていることがわかって、そのままその電話で不動産会社に面接に行かないことを連絡しました。性差別が当たり前みたいな会社に行かずにすんで、とても解放感があったことを覚えています。
――1990年代を境に、共働きと専業家庭の比率が入れ替わります。ちょうどその頃に入社されていると思います。
治部さん:入社した頃、男性上司は専業主婦の配偶者がいる人が多かったです。なんとなく男性の道と女性の道が分かれていて、男性の道は「働く」。女性の場合は、「働く道を選ぶなら独身で」という雰囲気はまだ残っていました。ただ、人って周囲の状況を一般化して捉えるもので、身近に3人同じような人がいるとそれが「普通」になっていきますね。
私の場合、26歳ぐらいまでは子どもを産む気がありませんでした。(母が主婦でしたから、子どもを持ったら仕事を辞めるんだろうな、と思っていました)でも同期の女性で比較的早く結婚・出産して仕事と両立している人がいて、「そんなことが可能なのだな」と思うようになりました。
――ご両親から特に何か言われることもなく。
治部さん:「結婚しろ」とも「子どもを持て」とも一度も言われたことがありませんでした。ただ一人目を産んだときに母が「私もばあばになれた」と喜んでいて、それで初めて「あ、この人は孫がほしかったんだな」って思いましたね。母は専業主婦にしては家事が不得意だったと思います。家の中は散らかっていることが多かったから、家がきれいでお菓子を手作りしてくれるような友達のお母さんを羨ましく思ったこともあったけれど、今思えば子どもがどう生きるかを自由にさせてくれたことは良かったと思います。
私と同世代の働く母親の中には、主婦だった実母から家庭に入る方がいい、と言われて辛いという人も少なくありません。私が自分の母に最も感謝しているのは、専業主婦だった自身とは全く違う選択をした娘の生き方を100%認めて、肯定してくれたことです。
子どもたちの保育園で「おじいちゃんおばあちゃんを迎える日」があって、招待したらとても喜んでいました。「保育園って素晴らしいわね。私も保育園に入れたかった」って。
――治部さんは事実婚を選択してらっしゃいますよね。その理由を教えてください。
治部さん:私も夫も、それぞれ自分の名前が出る仕事を子どもが生まれるまで10年以上続けてきました。どちらかが変えるのは変だよねと思ったので。勤務先では上司も人事も何も言わずに必要な書類作業を進めてくれました。私がどんな名前だろうと、私が書く記事が面白くて読者の役に立てば良い、という成果主義だったのがありがたかったです。
――お母さんとご自身が似てるなと思うところはありますか?
治部さん:根拠なき楽観主義ですかね。話せば何とかなると思っている。引っ越し先は千葉県のやや奥で、交通が不便な場所だったんですね。自家用車がある家庭は良いのですが、クルマを持たない高齢者が孤立して家に閉じこもりがちでした。それで母はコミュニティバスの必要性を感じて、すぐ国交省に電話していました。テレビで岩手県のコミュニティバスが素晴らしいっていうのを見たら、早速現地まで行ってみたり。
――行動力がすごい。
治部さん:近所の主婦仲間と一緒に全部の市議会議員をまわって話を聞いてもらって。予算がついて、バスが走るようになりました。特定の人にだけ話を聞いていても社会は変わらないから、なるべくいろんな人に話を聞く。そういう動き方が今の私と似ていると思いますね。もし母が私世代だったら、NPOを起ち上げていたと思う。
――通勤ルートが決まっているビジネスパーソンではないからこそ、気づいたことかも。
治部さん:専業主婦だからといって何もしていないわけではないんですよね。家庭内で無償労働をして、子どもが育ったら地域で無償労働をして……。母は今、市の行政改革委員会の委員をしています。「私は何もわからない」って言っているから、「大丈夫だから、今までやってきたことをちゃんと言ったほうがいい」ってアドバイスしています。
――治部さんは、フリージャーナリストとして特に働き方やジェンダーに関して発信してらっしゃいます。社会を変えていくという部分で、通じるものがあるように思いました。
治部さん:記事を書いたことによって、世の中に知られるべき情報が知られ適切なアクションが取られることがうれしいです。ジェンダーに関しては、「『女性は結婚したら家庭に入ればいい』と言ったら彼女に怒られたので講演を聞きに来ました」って男子大生がいたりします。素直だなって思いますね。課題はたくさんありますが、書くことは楽しいし、自分のやれることをやっていきたいと思います。
治部れんげ
1997年一橋大学法学部卒業後、日経BP社で16年間、経済誌記者。2006年~07年ミシガン大学フルブライト客員研究員。著書にアメリカの共働き子育て事情を記した『稼ぐ妻 育てる夫』(勁草書房)、日本のワークライフバランスを考えた『ふたりの子育てルール』(PHP研究所)。取材分野は、働く女性、夫婦関係の再構築、男性の育児参加、子育て支援政策、グローバル教育、メディアとダイバーシティなど。東京都男女平等参画審議会委員(第五期)。財団法人ジョイセフ理事。財団法人女性労働協会評議員。
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