第一話 ヨガール 梨恵
谷村志穂『さざんが、く』

BW_machida

2022/02/11

杉山道生、38歳。容姿、仕事とスペック高めだがいまだ独身の商社マン。入社二年目のときに先輩に連れて行かれた銭湯サウナから〝汗〟の魔力にとりつかれ、自分の限界を見極める日々が始まった―――――恋愛小説家・谷村志穂がつむぐサウナと恋の物語。

 

 テーブルに運ばれてくるグラスの表面に、水滴が浮かんでいる。
 取っ手つきのビアグラスの表面を覆うのは、大粒の水滴、まるで自分の身体から流れ出る汗のようだ。今日はこんなところに来ないで、いつもの近所のバーで一杯だけ飲んで帰るべきだったかな、と杉山道生は未練がましく思いはじめている。良いバーのグラスにつく水滴は、なぜあんなに繊細なのだろう。グラスの材質によるのか、温度管理の違いなのか。今度立ち寄ったら、バーテンダーの冨樫木香に訊いてみようか。いや、いつも色々訊いてみようと思っているのに、カウンター越しに向き合うと、ほとんど何も話さずに終わってしまう。それが心地良い店なのだから、すごい。

 

内藤ルネ©R.S.H/RUNE

 

「道生さん、ほら、順番ですよ」呼びかけられて、我に返った。
 急に、この場にやってくることになった。仕事終わりで立ち寄ったジムで、若いトレーナに誘われた。取り繕いようもない、いわば合コンだ。
「すみません、道生さん、今日になって圭一が熱出したみたいで、あいつが一番楽しみにしてたんですけどね」
 代わってトレーニングを担当してくれたササキくんが、手を合わせて合コンのマス埋めを頼んできた。なんでも相手チームはヨガのインストラクターたちで、みんなマジ可愛い! という触れ込みだった。
「道生さん、独身だし、渋いし、女の子たち、喜びそうなんで、お願いします」
 爽やかに頼まれると断れないという自分の一面に気づいたのは、もう中学生くらいの頃だった。お願い、杉山くん、と頼まれて、思えば生徒会の書記なんていう面倒な役を引き受けたことも、学園祭で急遽、羽をつけてキジの役をやったこともある。大人になると、その気配を察して、むやみに頼まれない距離を人とは保ってきたはずが、今日のように、不意打ちに合う。すると、いいかなと思ってしまう。いや、本当言うなら、ササキくんにうまくおだてられて、ちょっと気分が良かったのだ。三十代も後半に突入して、独身どころか、ずっと彼女もいないのは、ジムでだって、なぜだかみんな知っている。
 で、調子に乗ってやってきたくせに、自分だけは少し浮いた存在なのだとでも気取りたいばかりに無口を決め込んでいるのも大人気ないわけで、 「まあ、今日みたいにジムにも行くこともあるし、帰りに酒飲んだり」と、答えた。
 順番に向けられた質問というのは、ヨガールの一人からの、休日には何をしているのか、という差し障りのない内容だった。
 ちなみにヨガをする子たちだったら、ヨガールだね、と言ったのは道生で、ササキはそれを偉く気に入って、今日、ここに来る前に早速グループラインを作った。〈カモン♪ ヨガール!〉ハートマークまでついているから、途端に妙なニュアンスになるが、気づけば自分もすでにそのグループの参加メンバーになっている。合コンの途中で、ラインを回し合って、次に行くか、そろそろ解散するか、なども決めるそうだ。 
「あれ、道生さん、肝心なのは言わないんですか? 道生さん、趣味、サドウですよね」
 ササキのひと言で、その時、正面に座っていた子が顔を上げた。すっきりとしたショートカットで、ほとんど化粧っ気がなく見える。耳元には、小さなピアス。それが今、少し揺れた。
「あ、茶道だったら、私もしていました。中学の時の部活で」
 あどけない顔立ちなのに意外にも低い声で、そのギャップはなかなか魅力的だった。
「あれ、梨恵、もしかして、その茶道じゃないんじゃない?」
 ササキと向かい合って座っている女は、さっきからプハッと音が出そうに口を開けて笑い、今日一番よく話している。
 ヨガールたちも、全員がインストラクターというわけではなく、教室の生徒も加えた混合メンバーのようで、プハ子(と呼ぶ)と、梨恵と呼ばれた正面の子は、生徒の方のようだった。
「じゃあ、どのサドウなのかな?」
 梨恵は赤面してぽつりと呟き、その時には片方の指の先でピアスに触れた。丸い貝殻のような爪だ。その様子が可愛らしくて、道生も言うつもりもなかった話をしてしまった。
「サウナのことですよ。俺も、なんでそんな呼び方になったのか知らないですけど、最近、そう呼ばれてるみたいで」
「サウナって言うと、やっぱりおじさんっぽいもん。まあ、呼び方を変えたって、同じだとは思うけどぉ」
 プハ子が言うと、その隣で胸元の大きく開いたニットを着たヨガールは、こちらをちらっと見て言う。
「今は、女の人も増えているみたいですよ。一度ハマると気持ちいいんですってね。肌にもいいとかって」
 だがプハ子は容赦無く続ける。
「でもなんか、サウナに通う人って、すごく自分好き、みたいな感じがするじゃない。ねえ道生君とやら、何がいいのか、ひと言で述べよ? ああ、いいや、二十文字以内まで許す」
 プハ子は酔っているのか、こちらに指差して、そうして身を乗り出してきた。道生が唖然としていると、ササキが、すんませんとばかりに、自分の頭に手をやる。彼の太い二の腕で、筋肉がしなる。さては、そうして見せびらかしているな。
「ちょっと、この暴君、誰が連れてきたのよ?」
 ササキがそう問い返し、フォローのつもりなのか、続けた。
「大体、自分好きって言うなら、俺ら究極にそうだけど」
「わかるぅ。大体、あなたたちって、筋肉、つけすぎじゃない? そこまでは要らないっていうの」
 プハ子の勢いは、止まらない。
 彼らは別に、あなたに出会うために筋肉つけてるわけじゃないんでしょうが、と道生は呆れてしまうが、そこもササキは見事に取りなした。
「グサっ、それ言われるんだよな。不毛な努力だって。ちなみに、胸毛もないっす」
 分厚い胸をTシャツの上から叩きながら、ササキはトイレへと立った。
 一分もしないうちに、〈カモン♪ ヨガール!〉ラインに、メールの着信があった。男子一同、机の下で読む。
〈今日はササキ的にはアタリなしというところですが、どうですか? 順繰り、出ましょう〉
 そうなったら、インストラクターたちは早技だった。一人だけ、意気投合した子を見つけた奴はペアになって、だがあとは一人二人と、席を立っていき、ササキも戻ってはこなかった。支払いは、割り勘ソフトで計算されてきたのを、ペイペイで送って終わりだそうだ。
 ヨガールたちも流れを読んで帰っていき、梨恵もプハ子に促されて立ち上がった。
 道生は、残りのビールがまだ冷えていたので、丁寧に飲み干した。ゆっくり席を立ちかけたとき、梨恵が一人戻ってきた。
「名刺ってもらっていいですか? こういう席では、違うのかもしれないけど、慣れてなくて」
「それは、お互い様で」
 道生は慌てて、ビジネスバッグから名刺入れを取り出し、梨恵にその一枚を手渡した。彼女は受け取って、こちらを見つめた。
「商社マン、なんですね」
「まあ、そうだね」
 さらに冴えない返事をする。
「私も渡していいですか?」
 率直な梨恵の話し方は、好ましかった。一つ頷くと、彼女も名刺を手渡してくれた。都心にある会計事務所の名前が印字された、四角四面な名刺だった。
「あの、待っているみたいだよ。友達」
 プハ子が、はよ来い、とばかりに店の入り口で手招きしている。壁に寄りかかっているのになお、体がふらついている。
 二人がエレベーターで降りて行ったのを見て、道生は思い立って、同じエレベーターで屋上へと上がった。生温い夜気に包まれて、鈍く淀んだ空にも星が点滅しているのが見えた。合コンなんて久しぶりに出かけた。すごく楽しかったわけではないけれど、たまにはこんなこともいいなと感じられた。人のエネルギーは星のように点滅して見える。誰かが話し、誰かが呆れ、誰かが笑う。最近、引き算ばかりしていたから、足し算や掛け算をまとめてした、みたいな今日の疲労には温もりがあった。

 

内藤ルネ©R.S.H/RUNE

 

 翌朝、一人暮らしの部屋でコーヒーを入れながらパソコンを立ち上げると、メールが入っていた。

 

〈杉山道生様

 

 昨日、向かいの席に座っていた山田梨恵です。
 お詫びしたくて、メールしました。私が茶道部のことなんて言ってしまったので、嫌な流れになったかなって。理子さんも(あの絡んだ人です)、酔っていたみたいで、謝って欲しいとのことでした。
 お詫びついでに、うかがっても構いませんか?
 理子さんの質問の答え、私もうかがってみたいです。あの時、道生さん、何か答えかけていたような気がして。気のせいだったら、スルーしてくださいね。お会いできたご縁に。

 

梨恵〉

 

 名刺交換をしたのだから、週明けにでもメールくらい送ってみようかと道生も考えていた。だが、梨恵の方から、しかもこんなにすぐにメールが送られてきたのは、意外な気がした。見かけからはわからないが、落ち着いた物腰から判断すると、案外、年齢は自分と同じくらいなのかもしれない。
 単刀直入な質問の向けられ方や、スルーしても構わないという余白をくれているのも、道生にはやはり好ましかった。

 

〈山田梨恵様

 

答えは、ひと言がいいですか?
それとも、二十字以内?

 

 僕の答えは退屈かもしれませんが、無心になれる瞬間がある。それが必ず訪れる貴重な場だから、となるでしょうか。二十字を超えてしまいましたね。
 もしかしたらご本家、茶道にもそういう面があるのでは? だから、サ道なんて名につけられたんだろうし。
 二十字以内には失敗しましたが、ひと言で言うなら、「空っぽ」です。空っぽになりに通っています。
 そういうと、複雑な人間ぶっているみたいかな。

 

杉山道生〉

 

 その日のうちに、梨恵からはまたメールがあった。ちょうど空に夕映が広がる時間だった。
〈その空っぽに、私も一度、付き合わせてくれませんか?〉
 サウナに行こうか迷っていたのに、道生はパソコンに向かい始めた。
 道生のサウナ歴は実を言うと、長い。入社して二年目に先輩に連れていってもらった、都心にある銭湯のサウナから始まった。
 はじめから、サウナは自分にむいていた気がする。顔から吹き出す汗、腕や胸から、滴となってこぼれ出ていく汗、熱さの中でじっと一人になって、自分の身体とだけ向き合っている時間が好きだ。 年を追うごとに好きなサウナも増えていき、出張先でも、できたらサウナ付きのビジネスホテルを選ぶ。時間に余裕があれば、その土地ごとの評判のサウナに足を運ぶのが密かな楽しみになっていたから、実は梨恵を誘ってみたい場所はすぐに幾つか見当がついたが、パソコンのスケジュール帳を改めて紐解いていくと、そこには無数のサウナの記録があり、そこそこで流した汗が思い浮かんできた。
 ただ、結構、男くさいところばかりなので、女性も入館が可能なところが自分の引き出しには少なかった。こんな日が来るなんて、あんまり想像していなかったし、どうせなら箱根や静岡なんて足を伸ばしたいけれど、一応は日帰りできるところじゃないと重たい誘いになってしまうだろう。
 それでいろいろ考えすぎたかもしれないけれど、都心の小ぶりなサウナを選んだ。小ぶりだけれど本格的なしっかりしたサウナと水風呂、それに外気浴のためのスペースが男女別にあって、屋上では外気にあたりながらクラフトビールも飲める。休憩ができる。
 いきなりデートな感じも互いに気詰まりな感じがして、申し訳ないけどサウナランドのある電車の駅で待ち合わせにする。それなら、ビールも飲める。
 梨恵はすぐに日程を出してくれた。
駅からここへの道すがら、ちょっとガイドめいたことを口にした。
「あくまで、僕の入り方だけど、最初にまず湯船で温まって、サウナで汗が出るまでひと踏ん張り。水風呂で体を冷やして、少し外気にあたる。それを、何セットか繰り返す」
 ふーんと、梨恵は不思議そうな顔で聞き、フロントでサウナ着とタオルを受け取り、男女それぞれの方向に別れた。
 何度か来ている場所だし、本当はサウナの温度が92度と高めの適温なことや、水風呂は冷たくミネラル豊富で14度前後が保たれていることなども話したかったし、ガラス扉を開けるとすぐに外気浴ができるのも気に入っているけれど、そんなことは知り合ってからでも遅くない。梨恵とサウナが、そして梨恵と僕が。
 もっとアミューズメントパークのようなサウナもいろいろあって、館内水着でずっといられるところもあるけれど、そこはサウナ室は裸で、一人で、を死守。入館してからは、梨恵がどうしているか気にならなくはなかったけれど、いつも通り、ドライサウナ、水風呂、外気浴、の流れを三巡しているうちになじんだ心地良い抜け感に包まれて、一時間半後に、ブルーのサウナ着のまま約束の場所へと向かった。
 屋上だ。都心にあって、星空が見渡せる。
 時間ちょうどくらいに上がっていくと、梨恵は先に空を見上げて、リクライニングシートに足を伸ばして座っていた。
 鼻先がぴかぴかしていて、完全に素顔なようで、ゆで卵みたいだった。
 道生を見つけると、目尻を垂らして笑ったから、訊いてみる。
「どお?」
「気持ちよかった。そして、ここは最高ね」
 道生は少し得意な気持ちになって、
「ビール、うまいよ」と誘う。
 梨恵は声を出して頷き、
「いただきます」
 二人で夜の宙にグラスを浮かせて乾杯する。ここでは、中ジョッキ。汗を絞り切った身体に、どんどん染みるように入っていくから、まず一杯はあっという間に飲んでしまい、次の一杯はゆっくり飲む。
 ここのグラスの表面に流れる水滴は、生まれてすぐに流れていく。
 並んでリクライニングシートに座る。
「空っぽは、今日も来ましたか?」
 その尋ね方も柔らかくて、道生には、俄かにときめきがあった。
「そう言葉にされると照れるけど、梨恵ちゃんは? ああ、そう呼んでいいのかな」
「もちろん」
 と、答えて、微笑んだ。
「空っぽ、とまではなれなかったけど、良い時間でした」
 それから梨恵は、水風呂が意外によかったことや、サウナが静かなのに驚いたこと、などを案外快活によく話した。快活ではあったが、声が低いのと、言葉が澄んで響いた。
「もし気に入ってくれたんだったら、他にもいろいろあるから。森の中や海辺だったり」と、言いかけると、遮られた。
「よく女の人とも行くんですか?」
「いや、はじめてとは言わないけど、まずないかな」
 梨恵の質問に、意味はあるのか? 空っぽになりかけた頭が妙に冴えてきてしまう。よく女の人と行くのか? 三十代後半の男にそう問うのだから、彼女はいるのか? ガールフレンドは多いのか? 結婚歴はあるのか? と聞かれていたって、おかしくはない。いや、訊かれてもいないのに先回りするのはやめよう。
「私、三十七歳なんです」
 すると、梨恵からそう切り出された。
「じゃあ、僕より一つか二つ上みたいだね」
 それには何の反応もせずに、言った。
「実際よりは私、若く見えるみたいで」
 さして嬉しくもなさそうに、というかむしろどこか困ったように梨恵は見えた。
「まあ、見える、かな」
 そこから思わぬ告白が始まった。
「私、彼氏と別れたばかりなんです。ちょっと追っかけちゃって。惨めな終わりでした」
「もう一杯飲む?」
 空になりかけたジョッキを見せるが、彼女は首を横に振った。
「その彼が、俺、サウナ行くってよく言うようになって。私より十歳も近く年下だったから、そんなの信じられなくて。大好きだったんです。だから、他に彼女ができたんでしょうって何度もしつこく疑って。だって、若いのにサウナだなんて」
 急に一杯のビールの酔いが、乾いていた体の中を駆け巡り始めた。
「でも、そんなの、本当にありなんですね。テニスやダイビングやヨガだっていいし、この世界には、他にも無数の楽しみがあるのに、サウナだなんて、ごめんなさい、道生さんの楽しみを侮辱するつもりはないんです」
 というと、彼女は少し泣いているようだった。僕は汗を流しにきたけれど、彼女は涙を流しにきたのかもしれないと感じた。その方がどうやら、貴いようにも思えた。
 屋上で泣かれるのもなかなかに立場がないので、再び来た時の洋服に着替えて、来た道を駅まで戻った。
 彼女は素顔のままで、やけに心まで解放されたように足取りが軽やかだった。
 帰りに鰻でも誘ってみたかったが、なんとなくこのまま解散が流れに思えた。
 本当はただ梨恵にこれだけは伝えたかった。
「あのさ、その彼とはうまく行かなかったかもしれないけど、素敵な女の人だと思うよ」
「そんなこと言ってくれて、嬉しいな」
「彼が、梨恵ちゃんのことも、サウナ好きにしてくれなかったのは残念だな」
 駅がもうすぐというところまで見えてきた繁華街の一角で、彼女は足を止めた。こちらを見上げたので、思いきって僕と、もう一度初めてみない? と言ってみようとしたとき、
「私、もう一度彼に連絡取ってみます。サウナ行ったよって」
「それがいいね」
 僕はもう一度、戻ってもう一巡、をしたくなった。いや、今日こそ香さんのバーへ寄って静かに帰ろう。

 

第2話につづく
3月4日金曜配信

「太った汗を出せ」
サウナ×美・健康を極めるwebマガジン『zaumag

谷村志穂『さざんが、く』

谷村志穂

tanimura shiho

1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『半逆光』。
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