akane
2020/06/12
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2020/06/12
プロローグ
一九九六年 夏 培養室(1)
生命のはじまりとは、一体いつのタイミングをさすのだろうか、少なくともこの過程においては。高山義哲(よしあき)は、もう何度繰り返しているかわからない自問を続けほくそ笑む。
今日も至極順調だった。
照明を落とした培養室。作業台の薄明りの下に、二つのシャーレが並んでいる。
視界が悪い部屋での窮屈な動きに夏の暑さも加わり、六十歳を超えた義哲の額には脂汗が浮かんでいる。けれど、ひとたび顕微鏡下にシャーレを置くと、彼はやはり、自分がその世界を指揮する者であるかのような恍惚を覚えた。
また選び抜かれた者たちが、そこに集っていた。
二つのシャーレの中で光を嫌っているのは、つい先ほどまでマイナス一九六度の液体窒素の中で凍結保存されて、謂わば冬眠状態にあった受精卵たちだ。凍結状態から、今、ゆっくりと目を覚まそうとしている。
いずれも義哲が自らの手で受精させ、その中の選りすぐりを凍結保存させておいた命のはじまりだ。
手前のシャーレの受精卵は、昨年のうちから、奥のシャーレのほうは、先月に入り凍結された。
義哲は、日本では正式に一九九一年に認可されて始まった受精卵の凍結保存を、この住宅地の一角でそれより三年も前に、秘密裏にスタートさせている。
父の代には、近隣住民から慕われるごく普通の産院だった。父を否定しても始まらないが、父のように、平凡な町医者でいる気は彼にはなかった。
大学病院の医局時代、世界の不妊治療の最前線と出会った。産院を継ぐのを条件に、イギリスへの留学を認めてもらった。帰国後は世界中から発表される論文を読みあさり、それらはこの培養室のあちらこちらに、今も埃をかぶって積まれている。そこには、新しい生命を生み出す未知の領域が光っていたのだ。
はじめは古びた産院の一角に、培養室や採卵室を増設し、不妊治療外来を始めた。成功率の高さは大学病院より群を抜き、生まれてくる赤ん坊の産声は瞬く間に喧伝されていった。噂を聞きつけた患者たちが、この住宅地の個人病院に、遠方からも次々訪れるようになり、産院は建物も新しくして、舵を切り直したのだ。患者たちは皆、長年不妊の治療にあたり、その長くて暗いトンネルをとぼとぼと歩き続けたカップルたちだった。
たとえばこの、シャーレ手前の患者、宮本ファミリー。
湯河原の老舗温泉宿の夫婦だ。
胚培養までは、昨年のうちに成功している。
結婚して十年以上経つが、夫婦は子どもを授からなかった。
妻のみずきは、三十代後半。色白の肌が透けるようで、看護師たちが陰で噂するほどだった。いかにも着物が似合いそうな古風な見かけながら、勝気な性格であり、また生殖医療についてもよく調べていた。学生時代は、医学部を目指したこともあったそうだ。
「自分の体が生殖医療の舞台になるなんて、私、うれしいんですよね。最先端をやってください。やると決めた以上、なんでもやります。文句はいいませんから」
そう言った言葉通り、排卵誘発剤の注射を打ちにも、湯河原から自分で車のハンドルを握り、毎日産院まで通った。宿泊客が多い時期は、よく寝ずに来るのか、待合室で名前を呼ばれても気づかず俯いていることもあった。
嫁ぎ先の舅や姑たちには、人工授精を始めたことを打ち明けていないと呟いた。あとで、何を言われるかわからないと。
この病院については、世田谷に住む妹から噂を聞いて、やって来たという。大人しそうな夫を引き連れるように来院したのが、はじめだった。
宮本家の受精卵は、すぐに凍結保存した。みずきのホルモンバランスを待っての胚移植は、一度目はから振り、二度目は着床したものの、残念ながらうまく育たなかった。
「何度だってやってください。でも私、三度目の正直、信じていますから。ね、先生」
彼女は自らを励ますようにそう言って前回の診療を終え、明日の移植に向けて待機している。
不妊のカップルは、年々増えている。十組に一組の割と言われた時代は、すでに過去の話で、今や六組に一組と言っても過言ではない。不妊は富裕層を中心に、運を神に任せるのではなく、自分らで主体的に取り組むべきテーマへと変わっていった。
顕微受精は、患者にというより、生殖医療と向き合うと決めた自分への光明だったように義哲は感じることがある。
培養室で受精卵を生み出す瞬間、女性から採取した粒ぞろいの卵子が先に、シャーレの中でヒロインのごとく待つ。
この箱入り娘たちに、選りすぐりの精子と見合いをさせる。遠心分離機にかけられ、培養液を含んだ試験管の底から、水面近くまでスイムアップしてくる精子を救い出す。
培養液の中で十分に成熟した卵子は、すでにシャーレの中で待っている。形がよく、運動の活発な精子となら、見合いの成功確率は一気に高くなる。
ヒーローは、ここでは多少繊細すぎて手がかかる。卵子の周囲にある透明帯を、なかなか自ら破っていくことができないのだ。だから、細い針で一個の精子をピックアップして挿してやる。
今ではこの手法が当たり前だが、小さな孔だけあけて精子を自力で泳がせていた時期もあった。ずいぶん楽をさせてやっているはずだが、これでも入っていけない精子たちのためにも、より確実な方法が開発されていった。
今や精子は、自分で膜を破る必要もなく、実に優雅にヒロインのごとき卵子と出会い、融合する瞬間を待つ。
卵子の膜の内側で、精子は卵子を誘うように尾を動かし始める。直径〇.一ミリの卵子と、〇.〇六ミリの精子が奏でる協奏曲に、義哲はいつもうっとりする。
受精の成立。言ってみれば、義哲にとってはこれが命のはじまりの瞬間なのだ。誰が否定しよう。でないならば、今このシャーレの中にある受精卵は、なんと呼ばれようか。
まさに、命のはじまり。しかも、選りすぐりの命のはじまり。
冷たいシャーレの中で、明日にも、母体というふかふかのゆりかごに移植される瞬間を待っている。
何度目撃しても、顕微受精はすべての過程が神秘的なのだ。受精の翌日には二個の細胞に、翌々日には四細胞にと、受精卵は教科書通りに分裂を起こしてゆく。
こうしてできた胚を、ふたたび母体の子宮まで移植する。一度に移植できる受精卵の数には限りがあるので、余剰分を凍結保存させておくようになり、生殖医療の成功率は一気に高まった。
余剰胚の凍結保存の論文も、イギリスが先陣を切って発表した。それは忘れもしない一九八三年。まだ四十代だった義哲は、培養室の片隅でその論文を読み終え、立ちすくんだ。
十分にあり得る、と思った。
手技はそう複雑ではなかった。受精によってできた胚を、ストロー状のガラス容器に詰めて、マイナス一九六度の液体窒素で急速冷凍する。胚移植を行う間際まで保存するので、理屈上は十年先、二十年先にも母体に胚移植ができる。凍結保護剤を用いれば、胚がこの凍結と融解によりダメージを受けることはほとんどない。
論文を読みながら、すでに指先が居ても立ってもいられぬように細かく動いていた。すぐに自分がやるべきことがそこにあった。
これまで廃棄するしかなかった余剰分の受精卵が凍結保存できることを、当時の患者たちに内密に伝えた。もちろん、望むと望まないとを決めるのは本人たちだったが、誰も苦労してできた受精卵を無駄にはしたくなかった。何より不妊治療中のカップルたちには、一周期ごとが、待ちわびる時間だった。
論文にあった通りに、凍結した。融解した受精卵を、義哲は迷いなく患者に移植した。
次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋
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