ryomiyagi
2020/05/16
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2020/05/16
『透明な夜の香り』
集英社
小説すばる新人賞を受賞したデビュー作『魚神』で泉鏡花文学賞を受賞し、その後もたびたび直木賞候補にノミネートされるなど実力派として知られる千早茜さん。美しく静謐な文体でつづられる艶やかな世界にハマる女性は少なくありません。
新刊『透明な夜の香り』は香りをテーマに描いた連作短編小説です。元書店員の若宮一香は、ひょんなことから古い洋館に住む天才調香師・小川朔に雇われ、朔の家政婦のような仕事を始めます。人並み外れた嗅覚を持つ朔は、依頼主の希望に沿ったオンリーワンの香水を調合するのが仕事。朔のもとには、亡くなった夫の香りを求める女性、失踪した娘の手がかりを探す親などさまざまな事情を抱えた人が訪れます。一方、一香にも口にすることができない秘密があり……。
花や植物、ハーブ、スパイスのほか、雨などいろんな香りが行間から立ち上る豊饒な物語です。
「私自身、子どものころから結構、鼻がいいんです(笑)。アロマや香水も大好きですし、いろいろと嗅ぎ分けることもできます。そういうこともあって、もともと香りに興味がありました。ですが“鼻がいい”と言うと、“えっ!”と警戒されることも多くて……。それでこのことをあまり人に言ったことがないんです」
人気の少ない京都の老舗喫茶店で、春のうららかな日差しを浴びながら、千早さんは語り始めました。
「もっとも、今回の小説を書く直接のきっかけは、『人形たちの白昼夢』で分子料理の短編を書いたことです」
分子料理とは、調理する過程で起こる食材の変化を科学的に分析して解明し、新たな調理手法や技巧を編み出す調理法のこと。
「たとえば、トマトを遠心分離機にかけると上澄みは白く透き通った液体になるのですが、この液体にはトマトの香りが残っています。色がなくなり、形は変わっても、香りで脳が刺激され、付随する記憶がよみがえってくるのが面白いと思いました」
このことがきっかけで香りについて調べ始めた千早さん。ある一冊の本に強い影響を受けたといいます。
「調香師・中村祥二さんの『調香師の手帖』という本が、すごく面白くて。香りは個々人の記憶や経験と密接に結びついていて、言語化の仕方も人それぞれです。それで興味がさらに強くなり、香りをモチーフにしたエンタメ作品を、一話完結の長編ものとして書きたいと考えました」
こうして誕生した一香と朔を主軸にした物語。2人がそれぞれ秘密を抱えていることもサスペンスフルで、ページをめくるときの推進力になっています。
「人は香りに対してフラットではいられません。好き嫌いとは別に、香りを嗅ぐと一瞬にして脳が動きだし、記憶がよみがえります。
思い出したくないことですら思い出してしまう。そこを書いたつもりです」
ところで千早さんは「職業作家になって11年、いろいろな人を書けるようになった」と続けます。
「以前は、違和感ばかりに目が行っていました。今も生きにくさはありますが、年を取ったからか悲観することやつらくなることが減り、いい意味でいい加減になってきました。
ただ、社会の問題を作品の中に落とし込んでいきたいとは思います」
干からびていた一香の心が潤っていく様にも魅せられる物語。さて、あなたにとっての幸せの香りはどんな匂いがしますか?
おすすめの1冊
『調香師の手帖 香りの世界を探る』朝日新聞出版
中村祥二/著
「資生堂で長年研究生活を送った調香師による香りの世界への指南書。香りの歴史、歴史的人物と香りの関わりや、香りの科学的な仕組みや心や体への不思議な働きについても語っています。とにかく面白いので、お薦めです。」
PROFILE
ちはや・あかね◎’79年、北海道生まれ。’08年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。翌年、同作にて泉鏡花文学賞を受賞。’13年『あとかた』で島清恋愛文学賞を受賞。同年に『あとかた』、’14年に『男ともだち』でそれぞれ直木賞候補となる。
聞き手/品川裕香
しながわ・ゆか◎フリー編集者・教育ジャーナリスト。’03年より『女性自身』の書評欄担当。著書は「若い人に贈る読書のすすめ2014」(読書推進運動協議会)の一冊に選ばれた『「働く」ために必要なこと』(筑摩書房)ほか多数。
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