BW_machida
2021/02/12
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2021/02/12
現在、中央区の人口はタワーマンションの建設ラッシュで17万人にまで増えたという。26年前はというと、当時の人口は6万3000人。1935年まで時代をさかのぼると、この地域には26万1000人(日本橋と京橋区の合計)もの人々が生活していたという。1890年から1930年にかけて、中央区は江戸の中心から近代都市東京としての姿を現しはじめる。戦後から始まったオフィス街化により居住者は減り続け、高度成長経済が始まると、この街は住む街から働く街へ変化していった。
明治時代、東京の中心は日本橋から神田須田街だった。道路が拡張され、路面電車が走るようになると万世橋駅ができて、須田町交差点から万世橋までの大通りは東京随一の商店街として発展していった。鍛冶町(神田駅東口)に現在の松屋デパートの前身が洋館三階建ての店舗を建て、呉服以外の商品を売るようになったのもこの頃だ。
都内有数のショッピング街である銀座もこの頃はまだ栄えていなかった。銀座煉瓦街が建設される以前の銀座は貧困街で、小商人、職人、日雇い、大道芸人らが住んでおり、彼らを強制退去させて作られたのが煉瓦街だ。貧困層は日本橋にも京橋にもいた。近代都市を目指す日本橋や銀座は、こうした人々を周囲の区へと追いやることで作られたのだと著者はいう。
貧民層が移動した地域はその後、人口が増えて商工業が発達することで下町と呼ばれるようになる。新しい下町は、彼らが移動することにより生まれたのだ。そんな下町の魅力を著者は、「労働する人間の魅力、庶民の暮らしの記憶」にあると語る。
「狭い借家に家族が暮らし、洗濯物は玄関の前に干し、部屋の中にいる姿も通りから網戸やすだれ越しに見える。庭はないが植木鉢を家の前に飾り、緑を楽しむ。プライバシーの中に閉じこもらず、あけっぴろげで、気さくで、言いたいことを言って生きている。そこには人間が居る。」
下町と呼ばれる地域には、人の生活が土地にしっかりと根付いているように感じられる。街角に座りこんで世間話をするお年寄り、隣家と物の貸し借りをする光景や、長いあいだ地域の人々に愛されてきた店々。下町には、現代の慌ただしく目まぐるしい生活には見ることのできないコミュニケーションの形が残されている。本書はこれからの時代、人と人が共に生活するためにはどうするべきかという問題を考えるうえでも示唆に富む好著だ。
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