akane
2020/04/04
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2020/04/04
『去年の雪』
角川書店
新刊『去年(こぞ)の雪』を前に、直木賞作家の江國香織さんは開口一番、こうおっしゃいました。
「本文が始まる前のところに『だけど、去年の雪はどこへ行ったんだ?』と引用したのですが、これは学生時代に読んだ詩の一節で30年以上、ひっかかっていました。昔生きていて、今は死んでいる人はどこにいったのだろう。過去はどこに行ったんだろう、と。
これとは別なのですが……’17年、東京・渋谷で開かれたソウル・ライター写真展に行ったんです。そこで、彼の写真を見ながら、ここに今写っている人はみんな死んでいる人だと思いました。写真はきれいに残っているのに、です。この2つがイメージソースになって、今回の小説は生まれました」
『号泣する準備はできていた』『きらきらひかる』『冷静と情熱のあいだ』『間宮兄弟』ーー。作品は多数ありますが、これまで江國さんは“ある家族”や“ある夫婦”“ある恋人たち”の物語を紡いできました。その物語を通して、言葉になりづらい小さな心の動きを捉えて、的確に生命を吹き込んできたのです。
「これまで私の興味はいつも個人に向かっていました。ですが、今回はいろんな人がさまざまに生きている世の中の話を書きたいと思ったんです。いろんな個人がいる世の中に初めて興味を持ったといいますか(笑)。この世からいなくなった人も、今生きている人と同じ時空間に生きていることを描きたいと考えました。私たちが生きている土地は限られていますが、同じ一つの場所にいろいろな生命体が発生しては消えていくことを、細かく説明せずに、いくつもの物語を重ねていくことで小説にできたらいい、と」
こうして100人以上の登場人物たち(なかには動物も)の日常のワンシーンが切り取られ、折り重なるようにして描かれていく豊潤な物語が誕生しました。
1人目は事故に遭った市岡謙人の話。謙人は“ああ、自分はいま死んでいるのだ”と実感しながら息を引き取りました。2人目は三保子の話。三保子は電話相手と“(電話相手の)友だちの夫の息子が亡くなった”話をしています。3人目は三保子の義理の娘・律子の話。律子は“夏レンコンの肌も皮も白い”と思いながらむき、“あちらとの交信”ができるようになった義母を心配し……。老若男女、生きている人も今は亡くなっている人も、平安時代や江戸時代の人も、時空間を超えて自由自在に行き来しながら物語は編み上げられていくのです。
江國さんは、言葉を吟味しながら、ゆっくり語り続けました。
「実は私……電車の中で他人の顔面を拳で殴りたいと考えたことがあるんです。もちろん、行動には移しませんが(笑)、私がそう思っていることを、その電車に乗っている人は誰も知りません。そして、そう思っている人は私以外にもいるかもしれないのです。作中、何人かの人に“今、何を考えているのか”と言わせているのですが、どれだけ親しくても、その人が何を考えているのか他人にはわかりません。これって怖いことですが、面白いことでもあると思うのです。
本書に限らず、私はいつも“正解はない”ということを書きたいと思っています。正解はないのにみんなあれこれ考えて何とか生きています。そういう全体を“いいなあ”と思えるような小説を書けたらいいなと思いました」
個々のエピソードを読み進めながら、自分自身も江國ワールドの住人になっていることに気づき、不思議な安らぎを覚えます。読むたびに異なるシーンが胸に刺さり、新しい発見のある長編小説です。
おすすめの1冊
『友だち』
シーグリッド・ヌーネス 著
村松 潔 訳
白泉社
「誰よりも心赦(ゆる)せる初老の男友達が自殺し、空洞を抱えた女性作家のアパートに、男が飼っていた犬が転がり込みます。スリリングで美しく、思索を促す小説です。何もかも、素晴らしくてよかった。おススメの一冊」
PROFILE
えくに・かおり◎’64年東京都生まれ。’02年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で第15回山本周五郎賞、’04年『号泣する準備はできていた』で第130回直木賞、’07年『がらくた』で第14回島清恋愛文学賞、’10年『真昼なのに昏い部屋』で第5回中央公論文芸賞、’12年「犬とハモニカ」で第38回川端康成文学賞、’15年『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』で第51回谷崎潤一郎賞を受賞。
聞き手/品川裕香
しながわ・ゆか◎フリー編集者・教育ジャーナリスト。’03年より『女性自身』の書評欄担当。著書は「若い人に贈る読書のすすめ2014」(読書推進運動協議会)の一冊に選ばれた『「働く」ために必要なこと』(筑摩書房)ほか多数。
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