ryomiyagi
2020/04/06
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2020/04/06
先日の3月4日、平和を夢見る世界市民は、またぞろ失望の声を漏らした。
この日アフガニスタン駐留米軍は、南部ヘルマンド州で反政府武装勢力タリバンへの空爆を行ったのだ。
前月29日、米国はタリバンと和平合意したばかりだ。この日の空爆は、合意後初。当たり前のように、合意履行の先行きには暗雲が垂れ込めた。
2001年9月11日。世界政府を自認するアメリカは、タリバンと目されるイスラム勢力によって、アメリカ市民を対象とした米国本土におけるテロ攻撃を受けることとなる。NYのランドマークであったワールドトレードセンターは崩壊し、ペンタゴン(国防総省)までもが攻撃された。死者2996人、負傷者6000人以上。
第一次世界大戦以降、他国における数多の戦いに軍事干渉しながらも、決して米国本土を攻撃されることのなかったアメリカ人は恐慌をきたしたのであろう。その後のイスラム勢力に対する攻勢は苛烈を極めた。
ここに一冊の本がある。長年アフガニスタンにおいて、ハンセン病の治療に当たると同時に、現地の劣悪な水事情を解消するべく数百~数千本もの井戸を掘り続けた故・中村哲医師の、生前の講演活動などをまとめた『ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~』(光文社より電子書籍にて復刊・初版2002年3月)である。
中村哲氏は講演会のあと、必ず参加者たちからの質問を受ける。ときには質疑応答だけで一時間半におよぶこともあり、いまのアフガン、ほんとうのアフガンを知りたいという思いが中村氏に向けられます。氏の回答は、つねに識者の高みからではなくもっと視線の低い等身大のものです。土の手触りや汗の匂いを感じさせる、生のアフガニスタンの報告であり、また氏の生き方や哲学が伝わってくる発言にもなっています。(本書より抜粋)
すでに現地に赴任して18年を経た2002年に刊行された同書には当時の中村医師の思いが、極めてわかりやすい言葉で認められている。そこから少し、現代日本に生きる私たちがわきまえていなければならない、生きた情報と美しい世界観を追いかけてみた。
最初の質問は、アメリカの要請により自衛隊を派遣したことに対する現地の反応だ。これに答える前に、中村医師は、自身の国会証言を引き合いに出し、余りにも猥雑な国会のありさまと、当時の日本人がいかに無知であったかを語り始める。
アフガニスタンの現実を調べもしないで、いきなり自衛隊を出すというのでは説得力がない。それ故にこそ、参考人たちは国会で証言したのです。それが「有害無益の理由」を聞かずに、国の政治をあずかる者が品のないヤジを飛ばす。もう決まってしまったことであるかのように言う。たしかにあの頃「自衛隊派遣は仕方ない」というムードが圧倒的でした。心ない脅迫電話ならまだしも、周辺の人まで何かに取り憑かれて、私を中立でないと非難する向きまであった。どうも日本中、狂っとるんじゃないかと思われて仕方がなかった。無知がこれほど大衆を簡単に動かせることを空恐ろしく思いました。
(中略)
さて、うちの職員で職業軍人上がりのパキスタン人がいますが、「自衛隊が難民キャンプの護衛・設営に来る」と聞いて、けたけたと笑って言った。「いやしくも天下の日本軍ともあろうものが難民キャンプを護りに来るというのはないんじゃないか。それはうちの国の警察と市民の役目だよ」「何かの冗談にちがいない。これは日本の評判を落とすためのアメリカの陰謀だ」と、こういうことをおっしゃった。これがだいたい一般的な意見ですよ。
「警察と市民の役目だよ」とはよく言ったものだ。確かに、護衛と設営ならば、それは現地の警察や市民の仕事に違いない。現地に赴いた自衛隊の隊員こそ不憫だ。なぜなら、本来、現地警察か市民がするべき仕事に自衛隊従事すれば、それだけで世界は戦闘地域と解釈する。
果たしてそこが、当時の日本人が考える戦闘地域だったのかどうか、誰よりも現地に詳しい中村医師が硬軟取り混ぜて明快に答えている。
さらに、そんな日本に対して、アフガニスタン人がどんな印象をもって見ているかという問いに……。
はじめは幕府がフランスの援助、薩摩がイギリスの援助を受けるなど複雑なことになっていた。もしあのまま行っていると、チモールのように日本列島にいくつか植民地ができて、関東地方の共通語はフランス語で、九州は英語ということになっていたかもしれん。ところがその中で、当時の指導者は偉かったですね。日の本の国を束ね、こういう英米仏露などの夷狄南蛮とは一致して当たらねばならぬとして、現在の日本国家というものが形成された。この経緯が、アフガニスタンと非常によく似ている。
確かに、維新前夜の日本には、かの地の部族間闘争に等しい60余州がしのぎを削る割拠があり、それが「攘夷」の旗印によって、危うく国是は統一された。それとおなじことが、アフガニスタンで起きたと考えればわかりやすい。
また同時に、広島、長崎が原子爆弾の実験場にされたということで、アメリカに非道なことをされた国ということで、同情と親近感を持っているんじゃないかと思います。
イスラム教国ではないが、といってキリスト教国でもないという立ち位置。そして、遙か以前には仏教哲学の都であったという紛れもない歴史的事実が、今もって国民の多くが仏教を信仰する日本に親近感をいだかせる一助になっているらしい。と、これもうなづける。
そして私たち「非イスラム教国人」が、9・11以降強くした「イスラム原理主義」に対する嫌悪感に対して、
たとえば日本人に、三回の食事のうち、一回は米の飯にしなさいというふうな布令を出すのに似ているわけですね。ブルカ着用でもそうで、ほとんどの農村の、これはペシャワールでもそうですし、あれは一種の女性の外出着です。普通の女性は必ずこれを着用しています。だから、ブルカ着用は可哀想というなら、日本女性の和装に欠かせない帯を、あんなに体をきつく締めて可哀想に、解放してあげなくてはという類の余計なお世話でもあったわけです。
と答える。
ともすれば、擁護に過ぎるとも思える中村医師の言葉だが、それ以上に、私たちの偏り過ぎたイスラム観を顧みる必要があると気づかされる。
そんな中村医師の活きた現地報告と高邁な思想に触れるうちに、会場に集まった若者たちから、次々と支援の方法や、活動に対する賛同の声があがるや…。
結論から言いますと、どんな方法がいいという答えはありません。それから、途上国にかかわるときに、始めから立派な道徳的な気持ちを持つという必要もありませんよ。使命感なんかなくても結構です。ただの物見遊山でもいいと思います。
などと、まずは気負わず、少なくとも日本国内で目にする情報を基に培ったアフガニスタン観などは持たずに活動しなさいと優しく諭す。
そして、そんな若者たちに、
だから失礼ですけれど、あなたの気持ちがいずれ変わるかもしれないと思うのですが、変わったっていいのです。
まあ、現地の事情に即して言えば、日本での修業は数年ですね、私たちが求める現地の日本人の医者の技術レベルというのは、日本で基本的な技術を習得した段階で、最低二年の研修期間が終われば歓迎とします。専門分野に過度にのめりこまぬ段階のほうがよいのです。そして、できるだけ現地でやってもらって、そしてそれでいやになったら、日本に戻ればいいし、気に入れば現地に残ってやっていくという道もあるということです。いずれにしても十年はちょっと長すぎる。十年待って、ほとんどの人は、やってこなかったという経緯がありますので。
と、言葉こそ柔らかいが、そこには、中村医師がこれまでに味わったであろう残念な思いが散りばめられていた。
そして最後に、中村医師の思いを込めた祈りの言葉が続く。
そうしたアフガンの事情を斟酌しないでアメリカは空爆で女、子供をふくめて何千人もの命を抹殺しました。ニューヨークのテロで亡くなった人たちへの哀悼は世界中で行われていますが、アフガンへの空爆で死んでしまった人たちへの弔意はどこでだれがしてくれているのでしょうか。おそらく、空爆下で逃げまどった無数の飢えた女や子どもたちが、次のテロリストの予備軍でしょう。
アフガニスタンを絶対悪の一つと位置付けた側に生きる私には、そんな言葉が、自由世界を自称する先進各国に対する呪詛の言葉のようにも聞こえる。
『ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~』には、21世紀文明を享受する私たち日本人に対する「プリーズ」にも等しい講話が、まだお元気だった当時の軽妙な語り口調で忠実に描き出されている。はからずしも凶弾に斃れた中村医師の高邁な志を、果たして私たちがどんな形で受け継ぐことができるのか、そんな課題をもらった。
文/森健次
『ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~』
中村 哲 / 著
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