井上ひさし氏が語っていた「何が中村哲医師をアフガンニスタンで突き動かしたのか」
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2019年12月4日、遠くアフガニスタンから届いた一本の訃報に世界が涙した。
アフガニスタンで、長年医療活動に勤しんでおられた中村哲医師の訃報だ。この第一報を耳にした時、私はリアリティをもって受け取れなかった。なぜならそれは、以前に報道された故・中村医師のアフガニスタンでの活動が、軍事はおろか政治的にすらかかわりのない、極めて人道的なボランティア活動だったからだ。
見ず知らずのアフガニスタン人の為に、無償で奉仕する現役医師、それが中村哲氏だったはずだ……。

 

この日、中村さんは、朝から灌漑用水事業の進捗を確認するべく同地を巡回していた。中村さんを狙う武装グループは、2台の車で中村さんらの車を追走し行く手を遮った後、一斉に銃撃を加えた。最初にボディーガードの4人を殺害。その後、運転手と助手席の中村さんに発砲。負傷し起き上がろうとする中村さんに、犯人らはとどめを刺すように銃弾を浴びせ逃走した。
と、幾つかの報道を引用すれば、そこに「強い殺意がうかがえる」とあるが、果たして中村さんに向けられた「強い殺意」とはいったい何者の意思だったのだろう。

 

道らしい道はない。奥に進めば日本の山間に似た風景に出くわす。

 

中村哲さんは、1946年福岡市に生まれ、医師となった。1984年にパキスタンで、ハンセン病患者の医療活動を始める。その後、アフガニスタン・ナンガルハル州にも診療所を開設。年間20万人もの患者を診察するなど、驚異的な救護支援活動を繰り広げながら、らい菌(ハンセン病)やコレラなど様々な感染症に苦しむ人々のために、井戸や灌漑設備の設置に取り組んでいた。
言うまでもなく、それらの活動はボランティア。無報酬である。日本国内に残る奥様などの生活費は、帰国した際の病院勤務や執筆・講演活動などによって賄っていた。

 

様々な人に会い、取材し、記事を書くという仕事についた私は、いつの頃からか、そんな中村医師の存在を強く意識していた……つもりだった。
が、それと同時に、日常的に繰り返される様々な取材に追われるうちに、いつしか、これほどの世界的平和貢献を果たした同氏の存在を失念してしまっていた。

 

生前の中村さんの、まだお元気な姿を初めて目にしたのはいつ頃だっただろう。当時、国内ではODAの是非や海外で活動するNGOが、国会をはじめとする多くの場で問題視されていた。漫然と第三世界に資金供与する日本の在り方や、様々な支援団体の有り様に、議論ばかりが盛んに行われていた。
そんな国論渦巻く中、TVモニターに映し出されたその人は、現地人と共に井戸のほとりで過酷な作業を続けていた。

 

中村さんは、定期的に福岡に帰っては医師として勤務し、その間の収入だけで家族を養い、アフガニスタンでの活動には無報酬で従事し、年間20万人もの患者を診察するという。圧倒的な献身と恐るべきハードワークである。
さらには、現地の劣悪な水事情を改善するべく井戸を掘り始める。
アフガニスタンの荒漠な大地に、現地で賄える資材と人力をもって井戸を掘るとなれば、それはもう絶望的な作業だろうことは想像に難くない。

 

歓声をあげる子供たち。

 

世界第3位の経済大国・日本で暮らす私たちは、現地に赴いた人々の苦労を情報でのみ分かったような気になり、「同じ日本人が」と都合の良い同族意識を持ち出して心地良くなってはいないだろうか。

 

ここに、一冊の本がある。『ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~』(2002年光文社刊)。
中村さんが生前、アフガニスタンから帰国した際の、忙しい合間を縫って活動した講演や鼎談をまとめた一冊である。その冒頭を飾るのが、故・井上ひさし氏の言葉である。平成十三年十一月十七日に、山形県立置賜農業高校で行われた、同じく山形県出身の井上ひさし氏による記念講演の内容だ。
そこには、中村医師の活動に強烈なエールを送る、井上ひさし氏の熱い言葉が並んでいる。幾つか、そんな井上氏の言葉を引用してみよう。

 

この世はお金だけではない、他人の役に立つことがいちばん自分はうれしいんだと考えているからです。そして、こういう人たちが、じつは日本人の信用を高めている。

 

ですからアフガニスタンの人たちはこう思います。日本人はどうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。戦争がはじまると他の国のボランティアは、みんな逃げてしまうのに、なぜ日本人のこのお医者さんのグループはやさしくしてくれるんだろう。こうして日本人に対する信頼が生まれていくわけですね。

 

どっちの味方になるか。どっち側に立つか。これがみなさんの一生の値打ちを決めていく。

 

日本の政府の信用なんか全然ないですよ。「日本の外交方針は?」なんて訊く外国の新聞記者はひとりもいません。

 

当時、すでに言論人として地位を確立していた井上氏にとって、支援に赴く人々の存在こそ喜ばしかったに違いないが、それを運用する政府のありようには疑問も抱いていたのだろう。
戦乱・干ばつ・貧困・選挙制度の有無や、対して平和を享受する日本人の危うさや地球規模の温暖化問題にまで話は及ぶ。また、それら決してアフガニスタンだけの問題ではない人類全体の問題に、目を向けようとしないだらしない日本を、中村医師に代表される方々が支えていると、声を続ける。

 

稀代の言論人であった井上氏により、現地の深刻な状況や日本を始めとする先進諸国のご都合主義など、極めて柔らかな舌鋒を駆使して解説している。と同時に、ストーリーテラーでもある井上氏は、中村医師の赴いたアフガニスタンと言う国を、現代の姿(世界の最貧国という)と同時に歴史的な位置まで遡っていく。するとそこに、アジアの最貧国ではなく、東アジアが恋焦がれた宗教的哲学の地が浮き上がってくる。
 

まさに、井上氏が生前モットーとしていた「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」の真骨頂といえるだろう。

 

日本国内では「金・モノ支援の是非」が問われていた当時、中村医師は現地の人たちを鼓舞し、自らも汗を流すことによって清潔な清水をもたらす井戸を掘り続けていた。その数、(本書がまとめられた当時)650本というから驚きである。その後はさらに、年間1000本などという驚異的な数字まである。

 

帰ってくる難民を迎えるために無医村地区に共存できる診療所を計画。

 

中村医師には、日本国内での無意味なやり取りなどどうでもよかったに違いない。そんなことよりも、目の前にいるアフガニスタン人の窮状をいかにして救うか。それだけがリアリティをもって、中村医師を突き動かしたように思う。

 

そんな中村医師の功績を、故・井上ひさし氏が地元・山形の高校生に向けて、とても分かりやすい言葉で語りかけている。
そこからは、井上氏がいかに中村医師をリスペクトしていたかが伝わってくると同時に、戦後50年を経た日本人の美しさとだらしなさを、憧憬と悔悟を込めて言葉にしているように思えてならない。
不幸中の幸いといえば、井上ひさし氏自身は、中村医師の訃報を耳にすることが無かった。という、悲しい現実ではないだろうか。

 

同書には、私たちが改めて知るべき、そして忘れてはならない一人の日本人の姿が描かれている。

 

最後になるが、当時、襲撃犯はISかタリバンと目されていたが、どちらからもお馴染みの犯行声明は出ていない。彼らでないとすれば、(言うまでもなく他にも反政府勢力は多々あるが)地元民による水利権が元の犯行ではないかとも言われている。
哀しいかな「水利権」である。たしかに水を巡る争いは、洋の東西を問わず起こっている。しかし、現地の人たちを安全で豊かに暮らさせるために、中村医師たちボランティアの人たちが、いったいどれほどの汗を流して清潔な水を供給してきたか……。現地の諸部族にしてみれば、幾つもの問題があっただろうが、そこに思いを寄せる、ほんの少しの優しさの入り込む余地はなかったのだろうか。
そして中村医師は、現地の水利施設を見回るうちに凶弾に斃れてしまった。
この、彼ら名も知れない現地人の放った凶弾こそが「人類の悪意」ではないだろうか。

 

同書が刊行された翌年、中村医師は、アジアのノーベル賞とも言われるマグサイサイ賞を受賞している。それから13年を経て、2016年に旭日双光章を受章する。この一事をとっても、同氏の活動に対する日本の対応の遅さが見て取れる。この受賞こそ、現地で困難に取り組む生前の中村医師の活動を、少なくとも日本国内での資金集めなど、強くサポートしたに違いない。
『ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~』(光文社より電子書籍にて復刊)には、私たちが改めて知るべき、そして忘れてはならない一人の日本人の姿が描かれている。

 

文/森健次

 

ほんとうのアフガニスタン~18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告~
中村 哲 / 著

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