ryomiyagi
2020/03/30
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2020/03/30
※本稿は、松瀬学『ONE TEAMのスクラム』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
日本代表は1次リーグを4戦全勝の勝ち点19の堂々1位で通過し、決勝トーナメントに進出した。2019年10月20日、東京スタジアムでの準々決勝では、前回の2015年ラグビーワールドカップ(W杯)で金星を挙げた南アフリカと対峙した。
結果は、3−26(前半3ー5後半0ー21)で敗戦。「負けたら終わり」の決勝トーナメント、日本はベスト8でW杯の幕を閉じることとなった。
ピッチに“最後の円陣”がつくられた。ジョセフHC、スタッフも加わる。からだを張ったプロップ稲垣啓太が、若武者のナンバー8姫野和樹が、肋骨を痛めたSO田村優が泣いていた。
満員の観客で埋まったスタンドから温かい大歓声と拍手が降り注ぐ中、フランカーのリーチマイケル主将が円陣で声を絞り出した。こう言ったそうだ。
「下を向く必要はない。胸を張ろう。みんなを家族同様に思ってきた。もう試合ができなくなるのは寂しいけれど、このチームを、キャプテンとして誇りに思っている。ひとりひとりも、誇りに思うべきだ」
この日は、日本ラグビーの発展に貢献した“ミスターラグビー”平尾誠二さんの命日だった。台風による犠牲者への追悼もあってだろう、日本の選手たちは腕に喪章の黒いテープをつけて戦った。
試合後、FB山中亮平も泣いた。ひげの育毛剤でドーピング違反となり2年間の資格停止となった時、神戸製鋼を指揮していた平尾さんにラグビー人生を救われた。言葉に実感をこめる。
「平尾さんのところにも(試合が)届くと思って、思い切り、全力でぶつかりました。僕自身、すごく楽しんでできた。悔いはない。やり切りました」
ジェイミーHCも、平尾さんに寄せる思いは特別だった。1995年のラグビーW杯でニュージーランド代表オールブラックスとしてプレーしたのち、九州のサニックスに移籍した。その後、桜のジャージに袖を通した。日本代表の監督は平尾さんだった。1999年W杯では日本代表のナンバー8として、日本のために戦った。誇りだ。
一方、平尾さんと共にプレーし、その1999年W杯で代表選手だった村田亙さんもスタジアムで故人を偲んだ。日本ラグビーは、1995年W杯でのニュージーランド戦惨敗(17ー145)を屈辱とし、「日本全体でやらなければ」と世界に本気で挑んだ。それが1999年W杯だった。
そのため、平尾さんは慣習を破り、元ニュージーランド(NZ)代表のジョセフ氏(現HC)ら外国選手を6人も代表に選んだ。村田さんはレギュラー・ポジションをW杯直前、元NZ代表のグレアム・バショップ氏に譲った。村田さんは試合前、こう口を開いた。
「世界で勝つため、日本代表の“グローバル・スタンダード化”をいち早く取り入れたのが平尾さんだった」
それから20年。外国出身選手は代表31人中15人に増えた。世界に伍していくためには、フィジカルの強い外国選手の起用は必然だろう。日本ラグビー協会の代表強化は進み、時間も労力も資金も投入するようになった。妥協を許さぬエディー・ジョーンズHC(現イングランド代表HC)がチーム強化に努め、勝つ文化を日本代表に根付かせた。
その流れを引き継いだジョセフHCがさらに心身のタフさを求め、長期合宿でハードワーク(猛練習)を積んできた。「ONE TEAM」ーーひとつとなった日本は1次リーグではアイルランド、スコットランドなどの強豪を破る4戦全勝で決勝トーナメントに初めてコマを進めたのだった。
平尾さんら多くの人々の努力、挑戦の積み重ねが初めての日本開催のW杯で結実した。新しい歴史をつくった。社会的なラグビーブームも巻き起こした。
4大会連続のW杯出場。試合後、代表引退を宣言した38歳(当時)の“トモさん”こと、ロックのトンプソンルークは笑いながら、「おじいちゃんロックはもう、絶対、(代表は)終わりや」と大阪弁で言った。
「今、ラグビーはすごいブームやね。日本のラグビーはレベルアップした。みんな、勝つ文化、わかった。僕、引退。若い選手、いっぱい、いるよ」
ジョセフHCはこう言った。
「収穫は、素晴らしい選手が日本にはいるのがわかったことだ。いいシステムを導入できれば、選手はどんどん成長することができるだろう」
松瀬学(まつせまなぶ)
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