精子の完成! ナノスケールの世界で繰り広げるダイナミックな物語
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ryomiyagi

2021/12/13

 

先ごろ、台湾に並ぶコロナ対策の成功例として、高らかと「K防疫」なるものを掲げていた韓国において、一日の新規感染者数が4000人を超えた。対して東京都は5人。日本国内でも103人(11月23日現在)と、不気味なほどの沈静化を見せている。一見喜ばしい数字ではあるが、これといった対策を講じたわけでもなく見せる沈静化に喜んでばかりはいられない、嵐の前の静けさ…とすら考えてしまう自分がいる。

 

そんな日本の状況を、いまだ終息を見せない各国が盛んに分析するが、これと言った差異を見つけられないまま、わずかに「接種は遅れたが、その遅れがブレイクスルーのタイミングに合致したのでは」とか「マスク着用の習慣が大きい」などが言われている。
いずれにしろ結果が今であるなら、それは喜ばしい限りだが、それにしても人体の防疫最前線とは一体いかなるシステムになっているのかと思いを巡らせる。
そんなタイミングで『毛 生命と進化の立役者』(光文社新書)に出会った。著者は、理学博士でありながら、現在も筑波大学下田臨界実験センターで研究を重ねる稲葉一男教授だ。
著者の言う「毛」とは、頭髪や体毛ではない。抜けたり減ったりに一喜一憂する体表面の毛ではなく、人体・生命の安全と奇跡を司る細胞レベルの毛である。

 

気管は、空気から入る敵を迎え撃つ最前線で、上皮繊毛の運動によって、ごみや細菌などを粘液とともに痰として外に排出します。(中略)
新型コロナウィルスの恐さは、この繊毛上皮細胞に感染して殺してしまうことです。いわば、防衛の前線を崩してしまうというわけです。

 

先天的に気管の弱い私は、幼少期には半ば慢性的な喘息に悩まされた。小児喘息と言われるだけあって、歳を重ねるとともに喘息は影を潜めたが、それでもまだ呼吸器官に、少し弱点を感じている。
伴侶には、眠っている間に咳き込むことがあるといわれる。朝起きると痰が絡む。
それらを煩わしいと感じていた。同時に、寝間を共にする者には申し訳ないと思っている。
喉に絡む痰が、侵入しようとしていたゴミや雑菌であることは知っていた。しかし、本書を読むにしたがって、毎朝煩わしいと感じていた痰の中には、もしかするとCOVID-19が紛れ込んでいたかもしれないと思うとありがたい限りだ。
加えてそれを、本書の著者がいうように、気管上皮に伸びた無数の繊毛が、粘液に揺らぎながら外へ外へと押し出してくれていたかと思うと、もはや感謝しかない。
そして、そんな防疫の最前線を担う繊毛と同時に、もう一つ重要な「毛」が存在する。それが、「精子の鞭毛」である。繊毛よりも長いが、同じ構造をもつ細胞の毛である。
いつか授業で見せられた、男性器から放出される膨大な数のおたまじゃくしの、おたまじゃし然とさせている、頭(のような部分)から長く伸びた細長い毛がそれだ。

 

たった一個の卵子を目指して、無数の精子がか細い鞭毛を左右しながら泳いでいく。
その姿は、逞しいというよりも健気ですらある。
それにしても精子には、いったいどれほど精緻なプログラムが組み込まれているのだろうか。

 

精子のもとになるのは始原生殖細胞です。体細胞の系列とは異なる、精子や卵になる細胞群の祖先です。(中略)
その精細胞から出来上がった精子は、ふたたび卵と受精し、新たな子孫ができ、その中でまた新たな精子形成が起こります。
精子形成の中で最もダイナミックな形の変化は、精細胞から精子ができるところです。この過程は、「精子完成」あるいは「精子変態」と呼ばれ、核の中のDNAが体細胞のときのよりもさらに折りたたまれて、パックされます。(中略)
精子の場合には、プロタミンといったさらに塩基性の強いタンパク質が、DNAを強く折りたたんで小さくします。これにより、精子の頭が小さくなり、効率よく運動できるようになるのです。

 

決して目では見ることの叶わないミクロの世界で、細胞が幾度となく分裂しながら変成していく。そしてさらに、小さく何度も折りたたまれてもなお、そこには未来へと継承すべき膨大な量の情報をパッケージしながら、今後迎える孤独な戦いに向けて変態し、唯一の武器である鞭毛を手に入れ精子として完成する。
あのおたまじゃくしの中には、今こうして生きている私のすべてがパックされ、幾つもの困難を乗り越え、数えきれないほどの異なる私自身と熾烈な競争を経た後に唯一の卵と結合する。
なんとドラマチックな物語だろうか。果たして私は、この「精子完成」から受精に至る物語を越えるほどの物語を演じることができているだろうか。

 

私たちの体の中には、精子のほかにも、たくさんの細胞の毛があります。この毛は私たちにとってとても重要です。このミクロの細胞の毛がきちんと働いてくれないと、私たちは健康な状態を維持することができません。(中略)
細胞の毛は、私たちの体の中のどこに生えているのでしょうか。まず思いつくのは、第1章でお話しした精子ではないでしょうか。(中略)
動く毛は、このほかに脳室、鼻腔、気管、精巣、卵管、そして発生初期の胚に現れる「ノード」と呼ばれる部分にも存在します。(中略)
精子の鞭毛や気管の繊毛は動かないと困りますが、もともと動かない繊毛もあります。どちらかというと、動かない繊毛の方が多いといえます。これらは、異常な繊毛ではありません。運動性を失ったかわりに、細胞から伸びているアンテナセンサーのような働きをしています。

 

なんと、私たちの体内に存在する無数の「毛」は、感覚器の役目まで果たしているらしい。

 

今は亡き父親の、生命としての情報を私に繋ぎ、その後の営みの中で現れるさまざまな外敵から防御し、五感はおろか、体内に起こるありとあらゆる変化をすべてを感知する感覚器としても働いている「毛」。
『毛 生命と進化の立役者』(光文社新書)は、決して見ることの叶わない、知ってるつもりで何もわかっていなかった、私たちの中に存在する数えきれないほどの「毛」の凄さを教えてくれる。

 


毛 ~生命と進化の立役者
稲葉一男/著

 

文/森健次

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