第5章 謙太(3)チューブ
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/11/13

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第5章
謙太(3)チューブ

 

 グループラインの名前は「タケル♡」だ。
 ジヒョンがタケルくんを探し始めた時に、謙太も加わって三人でトークグループを組んだ。謙太の悪ふざけでつけられたハート付きのグループ名が、ジヒョンには恥ずかしい。
「タビケン」のグループラインも別に存在するが、昨日から新しいメッセージが続けて届いているのは、「タケル♡」の方のトークスレッドだ。

 

 

 どこか弾んだようなジヒョンのメッセージに、謙太も早速、書き込みをしている。菜々子への呼びかけもあるが、それらの言葉が全て曇りガラスの向こう側にあるように感じられてしまう。今はちょっと、あらゆることから遠ざかってこの場に集中したい。既読無視を許してほしいと思う。
 エッペンドルフのサーモミキサーによるサンプルの溶解を待つ間も、菜々子は結局、帰宅しなかった。ゼミ室の片隅に置いてあったソファでうたた寝し、操作とともにオーバーナイトすることに決めた。
 サンプルをセットする前には、幾度も、父と母それぞれの1.5mLチューブを交互に見つめた。自分と血の繋がりがないのは、そのうちどちらだというのだ。
 わかってしまう、もうすぐすると。各自のDNAが工程をたどるごとに、どんどん純化されてしまうのだから。
 折しも、夜半からは雨風が強まって窓を打ち付け始めていた。そのせいなのか、うたた寝の間に見た夢に、菜々子はうなされた。

 

「おかえり。あんたも、こっち来る?」
 そう手招きする母の形相は、見返すと、唇が裂けて鬼のようだ。その隣で父は、目玉がぎょろりとして、獣の耳をつけている。冷静になればコミカルで笑ってしまうような姿の生き物と化した父と母が、枯れ草の上に出したテーブルで長閑にお茶を飲んでいる。
「行かない」と、返事をし、躊躇していると、強く手を引かれた。誰の手かはわからない。手首が折れそうに強い力だ。

 

 そこで、目が覚めた。廊下を隔てた反対側の部屋の雑然とした机の上で、エッペンドルフのサーモミキサーが、内部の熱を示すように光を放ち、振動を続けていた。
 窓の外には稲妻が走り、また大きな音が響いた。
 雷は、雨に濡れた窓ガラスを震わせ、こちらに訴えかけてくるようにも感じられた。今すぐ検査などやめなさい、お前はそんなことのために医学部に通っているわけではないだろう、と。
 不意にコツコツと、雷鳴の間を縫うように、廊下に足音が響き始めた。同時に突然、廊下の天井に照明が灯る。

 

 

 菜々子は慌てて身を起こし、毛布を剥いだ。まだ外は暗い。スマホを握ると、表示された時刻は、明け方の四時を過ぎたばかりだ。
 一体、こんな時間に誰が? まだ夢の中なのだろうか。
「あら、泊まってたのね」
 すると、デニムにダウンジャケットを羽織った川原が、ゼミ室の入り口に立っていた。素顔にひっつめ髪で、頬に垂れたほつれ髪が、雨に濡れている。
「オーバーナイト撹拌中でした。あの……先生の方は?」
 ふうん、という感じに声を漏らし、川原は掠れ声で言った。
「雷がね、ちょっと気になって。機械の電源が落ちたら大変だから」
 確かガイダンスの時にもそう話していたのを思い出したが、こんな真夜中にまで駆けつけるとは、驚きだった。
「先生のお宅は近いんですか?」
「近くならよかったけど。車で一時間はかかるところ。でも雷で起きるのは、慣れっこ」
「すごいですね」
 愚にもつかない感想を口にすると、
「まだ寝てていいのよ」
 川原がゼミ室の扉を閉めようとするので、
「いえ、ちょうど目が覚めました」
 そう言って毛布を畳んだ。菜々子も、立ち上がり急に心配になって、廊下を渡ってサーモミキサーの部屋を開ける。無事に動いている。

 

 何とか最後の工程まで、このサンプルで辿り着きたい。
 わずかばかりの、ほんの小さなサンプルが、親子鑑定を果たすのを改めて不思議に思う。
 東日本大震災の時には、溺死体から採取したサンプルも、身元判明のために用いられたそうだ。
 川原はこんなことまで講義で話してくれた。
「これが案外、親子関係が入り乱れていたりして、難しかったんだけどね」
 他にも、この鑑定により、妻の長年にわたる裏切りを知った夫の話や、我が子との血縁を信じられないでいる母親の話もあった。
 通常は弁護士を通じて、法医学教室に鑑定の依頼がくる。それを川原たちが、より確実な方法で、本人たちから直接口腔内細胞を採取するところから引き受ける。
 そうした鑑定例が話された講義の間中、自分だけではないのだ、と菜々子は思って聞いていた。かつては自分が、そうした、ある種の特別な事情を持つ人間の側になるなどとは考えたこともなかった。だが、両親のいずれかが違っているのは間違いない今、何かしらの運命は自分だって引き受けても良いのではないかと思うしかない。だったら自分の手で見つけてみせる。

 

 

「起きちゃうなら、あなたの分もコーヒー淹れようか」
 准教授室から、菜々子にそう声がかかる。
「それ、めちゃくちゃありがたいです」
 菜々子はそう言って、腕につけていたヘアゴムで、自分も髪の毛を高い位置に結び直す。
 コーヒーの良い香りが漂ってきたのを認め、准教授室へ入って行こうか考えていると、
「そっちへ行くわ」
 マグカップを二つ手にした川原が、片方を菜々子に渡して、改めて二人でサーモミキサーを囲んで座った。豆から挽くタビケンほどではないが、香りのいいコーヒーだった。

 

「体が温まります」
 そう伝えた以上に、菜々子にはその温もりが身にしみた。川原も両手でカップを持ったまま、暖を取るようにしている。華奢な体のどこに、深夜に車を運転してくるようなエネルギーが詰まっているのだろうと思わせる。
「順調に進んでるのかな?」
 サーモミキサーを覗きながら、訊ねられる。
「どうなんでしょう。コンタミはしていないと思うんですが、やっぱりあんな少しのサンプルでDNAが取れるなんて、まだ実感がなくて」
「まあね。だけど多分、それなりに何かは得られるはず」
 少しずつ明け始めた空が光り、二秒もせずに雷が鳴った。
「近付いたかも、雷」
 菜々子が肩を竦めると、
「勘弁してよ。停電だけはやめて」
 と、川原は立ち上がり、腰に手を当てて窓辺に立った。
 いつか、彼女がなぜ法医学を志したのか、聞いてみたいと菜々子は思った。
 だが同時にサーモミキサーが終了の合図を放った。
 慌ててノートを開き、ここからの工程をお浚いする。

 

 

 3 DNA を抽出。
 サンプルが溶解し見えなくなったチューブをサーモミキサーから抜いて、DNA抽出機の方へ移し、セットする。
 ここでの抽出時間は、16分。
 川原は実習では、こう言った。
 「16分くらい、お茶ができるわよ」

 

 4 DNAの濃度測定。
 抽出したそれぞれのサンプルのDNAの濃度を測定する。この工程は省略も可だが、菜々子は万全を期してやるつもりだ。
 今日のはじめの予定では、ここまでをこなして帰るつもりだった。
 16分のお茶を区切りにするつもりが、まだステップ3に辿り着かないうちに、はからずも川原がコーヒーを淹れてくれたのだ。
 おかげですっかり目が覚めた。
 ならば、超微量の計測の連続になる、次のステップ5までを終えて帰ろうと思う。
 ためらう気持ちと同居する逸る気持ち。後者の方に火がついた。

 

 5 PCR調整。
  PCRとは、必要なDNA領域だけを増幅させる方法の略語(ポメラーゼ、チェーンリアクション「ポメラーゼ連鎖反応」)。
抽出したDNAに、プライマーや酵素、他の試薬類を、ごく細い0.2mLチューブで混ぜる。この工程すべてに用いるのは、ピペットマン(おもちゃの銃のような形状)。プッシュボタンを押し下げると、ピストンが排出したエアーの容量だけ、液体を吸入、排出する。ごく微量の液体を、誤差ほとんどなしに計量できる。

 

 川原も、帰宅するのはもう諦めたようで、白衣を羽織って作業を始めた。
 窓の外ではまた光が走り、やがてごろごろと雷鳴が轟いた。
 停電が起きなかったのを確認するように、川原と同時に天井に見上げていた。
 天井が、ふたつの視線を跳ね返す。

 

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋、斉藤久子

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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