BW_machida
2020/09/25
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2020/09/25
第四章
パズル(1)Never Not
何かと忙しかった夏休みが明けて、ジヒョンも後期の履修届けを提出した。
履修届けは韓国にいた時にも、いつもどっと神経を使う。あれも取りたいこれも取りたいと思うのに、いざ組んでみるとパズルのように複雑で、結局興味のない講義をたくさん取ってしまう。意気込んでいた自分に申し訳ない気持ちになる。
日本の四年次では臨床実習がぎっしり続くのがわかったが、どうしても選択したかった医学英語アドバンストはうまく叶った。
安堵とともに自宅に戻ると、まるでその頃合いを計ったように、カカオトークにメッセージが届いた。
〈ジヒョンさん
どうしていますか?
こちらは兵役からの一時帰宅が叶い、ソヒョンの街に戻っています。
昨日、両親と一緒に宗家にもご挨拶に伺ってきました。ご両親より、ジヒョンさんが日本で真面目に頑張っていると聞きました。
僕に連絡をくれないのは、君らしい気遣いだと思っています。あと三日、休みがあるので、遠慮はしないで連絡してほしい。貴女の写真は、隊で見せたらみんなの癒しになっていましたよ。
ミンソクより〉
目にも懐かしいハングルのメールが届いたはずなのに、手のひらのスマホが少し重たくなった気がした。
婚約者のミンソクは、兵役中だ。だから自分は遠慮していたのかと言えば、本音を言うとちっともそんなことはないのが、この頃それがよくわかり後ろめたい。
韓国と日本に時差はない。今は同じ標準時だが、韓国では何度も日本の統治下にあった頃からの子午線を引き直すべきだという法改正の案が持ち上がっている。実際、三十分の時差を設けた歴史もある。
けれど今は同じ、韓国も夜の七時だ。多分それでも三十分だけ日が長くて、空はまだ少し明るいはずだ。
こちらからの既読マークはついたはずだからすぐに返事をしなくてはと思うのだが、指が動き出そうとしない。
本当だったら、婚約者の声が聴きたくなってもおかしくないのに、今はただその長いメッセージが、スマホの画面の中から大きく迫ってくる。
同じくらいの長さの言葉を返す義務を感じた。
〈ミンソクさん
おかえりなさい。
久しぶりのオモニのお食事は美味しく、お部屋は心地よいことでしょう。
あなたが兵役を立派に務めていることを讃えます。あと一年、お互いに頑張りましょうね。どうか、健康でいて下さい。
ジヒョン〉
既読がすぐにつき、また返事があるかもしれないとどこか身構えるように待っていたが、そのままスマホは沈黙した。
小さく息を吐き、姉たちとのカカオトークの画面を開く。
〈オンニたち、アンニョン。今、ミンソクさんからメールが届きました。
こちらは、大学の後期授業が始まったよ。夏休みに帰国しなかった分、だいぶ日本語がわかるようになったみたいだ〉
夏休み、家にいる間は好きでもないはずの日本のテレビばかり、友達がそこにいるように観続けていた。一番好きだったのは毎日放送しているおばあさんの料理の番組だ。口調もゆっくりで、おばあさんの優しい言葉がよく伝わった。お笑い番組は早口でわからない。
それでも今日驚いたのは、電車の中で人々が話している小声も理解できるようになっていたことだ。
日本の女子高校生がK-popアイドルのことを夢中になって話しているのは面白くて、彼女たちはジヒョンとは逆に韓国の彼らのテレビ番組の話をしていた。思わず、会話に加わりたくなったほどだ。
〈ジヒョナ、ミンソクはずいぶん精悍になったよ。驚くかも〉
上の姉から、すぐにそう返ってきた。
〈そうそう、ジョングクが彼の部屋から投稿した素敵なカバーがあるから、送っておく。それ聴いて、ジヒョナ、タケルを思い出しちゃうかもしれないけど〉
下の姉が続く。
〈何言うの? ミンソクに悪いでしょ〉
〈どうして、思い出もいけない? 今はまだ、秘密があってもいいよ、ジヒョナ〉
姉たちは、そうしてカカオトークの画面にそれぞれ書き込んでくる。あっという間に連なるトーク画面からジヒョンの心は少しずつ遠のいていった。姉妹なら、それも許される。
サーバーでコーヒーを落としながら、次姉の送ってくれた曲を自分でも探して、ダウンロードしてみた。
Never Not
ラウヴという、初めて聴くアーティストの力強くて掠れた声は、ちょっと韓国人ぽさもある。
静かに唄い始めるその曲を、はじめはテーブルで指を叩いてリズムを取りながら聴いていた。
なのに、嘘、その手に涙が落ちた。急に溢れ出した涙が、指の間からテーブルにこぼれた。
だってこんな風に唄っているのだ。
〈僕らはすごく魅力的だったよね
そしてすごく悲惨だったよね
あれは、どんな魔法とも比べられない時間だった
自分を見失った、十七歳のとき
君が来て、僕を見つけてくれた
僕の心の中には、二人の思い出のための部屋があるんだ〉
唄われているのは、十七歳の思い出。
でも、かつて幼稚園生だった自分にもそれは同じだ。
姉がカカオトークで送ってきてくれた、タケルの名前。タケルの思い出を姉たちに話したことは、数えるほどしかなかったはずだ。それでも、どうしても日本へ行きたかった気持ちの奥にあった思いを姉たちが気づいていたことに、驚いてしまう。
小さかった自分をぬいぐるみのように可愛がってくれた姉たちが、ジヒョンの心の中にあった部屋を覗いていたというのだろうか。
タケルは今、どんな声なのだろう。
どんな歩幅で歩いて、どんな手の大きさで、そして今も、同じように大きな心のままなのだろうか。
ジヒョンは、壁際の机まで行くと、引き出しに畳んでしまってあった手紙のコピーを広げた。
同じ日本なのに、もしかしたらこの部屋からは韓国と同じくらい遠いかもしれない場所にいるタケル。
〈好きだ、この曲〉
と、姉たちに送る。
〈やっぱりね! 知ってた〉
と、下の姉。
〈だけど、スヤはまだジョングクのこと追いかけていたとはね〉
と、上の姉。
〈一生、ファン〉
姉たちのやり取りを見ながら少し笑い、私も一生、タケルが……と心の中で思う。
タケルは、ジヒョンのことを、まだ覚えているだろうか。覚えていたとしたって、まだこんな風に思っているとわかったら驚いて、それこそ、優しい彼にはずいぶん重たいだろうかとジヒョンは思う。
だから、書かないと決めたはずなのに、決心は脆くも揺らいでしまう。
引き出しから白い紙を取り出すと、ペン先をそっと置く。
今度は指が、その時を待っていたように動き始めた。
〈尊くん、私はジヒョンです。
さくらの木幼稚園で一緒だったのを、覚えていますか? ……〉
次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋
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